思い出深い演奏会 マイナスイメージで2

 前にも書いたことがあるのだが、やはり非常に記憶に残っている演奏会だ。都響の定期演奏会で、指揮が常任の渡辺暁生、バイオリンのソロが石川静でブラームスの協奏曲をやった。このときの印象が強烈なので、ほかのメインプロに何をやったか、まったく覚えていない。
 出たしはごく普通に、安心して聴ける感じで進行していた。ところが、石川のソロが入ってきたところから、まったく違う音楽をやっているのかと思うほど、雰囲気が変ってしまった。渡辺は普通かあるいはちょっと速めのテンポをとっていたのだが、石川は、かなり遅めのテンポをずっと維持している。チャイコフスキーのコンチェルトは、ソロが入ってくるとき、思いっきり遅く演奏し、序奏的な部分がおわると、テンポを通常に戻すような演奏が多いが、ブラームスは、そういうやり方をあまりしない。むしろ、前に書いたヌヴーなどは、勢いよく入ってきて、そのままエネルギーを保持するような弾き方をする。しかし、石川は、とにかく遅めのテンポではいってきて、主題を奏する部分になっても、そのままの、かなりの遅めのままだ。ところが、ソロバイオリンがなく、オーケストラだけの部分になると、また渡辺テンポにもどって、そんな遅く、まだるっこしいのは嫌だ、というような雰囲気で、さっと済まして、再びソロが入ると、遅いテンポにもどる。石川が弾いている部分は、ゆっくり目というよりは、かなり遅いので、普通の演奏よりは、かなり長い時間をかけて、第一楽章が終わり、その最後の音が消えた瞬間に、一切にため息が漏れたのである。どうなるのことか、みな音楽を聴くより、ふたりの意地の張り合いがどうなるのか、破綻しないのか、はらはらしていたという雰囲気が、そのため息ではっきりと感じられた。

 
 似て非なる例として、バーンスタインとグレン・グールドがブラームスの1番のコンチェルトで共演したときのことがある。演奏を開始する前に、バーンスタインが異例の説明を聴衆に行ったことでも有名だ。長い間私は、誤解していた。丁度この渡辺・石川の例のように、要するに、リハーサルでどうしても、ふたりのテンポに関する意見が調整つかず、結局、ピアノが入る部分はそれにあわせるが、オーケストラだけの部分では、自分のテンポでやることにした、ということだったと思い込んでいたのだが、最近はじめてのこのライブ演奏を聴いて、バーンスタインが最終的にグールドにあわせたということだった。バーンスタインの演説はけっこう長くて、最初にふたりの解釈があわなくて、演奏会をやめることもできたと語り、ボスはどっちなのか、指揮者なのかソリストなのか、といって、聴衆を笑わせたりしている。そして、最終的には、グールドは新鮮な解釈でもあり、彼に合わせることにしたというようなことを語っている。実際にその後の演奏を聴いてみると、私には、グールドの演奏は、かなり奇抜なものに聴こえたし、聴衆もびっくりしただろう。バーンスタインの説明は、その聴衆の驚きを事前に緩和するために行ったのではないかと思うのである。バーンスタインのユーモアあふれる説明を聴いたあとだったので、かなり独特の演奏も、こういうものか、というように素直に受けとられたのではないだろうか。そういう意味では、渡辺と石川の演奏は、やはりかなり異例のものだったように思う。
 
 こういう協奏曲のとき、どのように練習が行われるのか、ソリストと指揮者の意見があわないときに、どう歩み寄るのか、もちろんそれぞれの組み合わせでまったく違うのだろうが、興味深いものがある。私自身がかかわった演奏会では、小川典子さんがソリストで出てくれた演奏会で、曲目がラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲のとき、小川さんが、指揮者に、ある部分で、これ以上は絶対に速くしないでほしい、と強い注文をだしていた。「これ以上は」というのも微妙な言い方で、ほんとうはもう少しゆっくり目にしてほしかったのではないかとも思う。その指揮者は、前回にも書いた威風堂々をとんでもなく速く演奏した指揮者で、駆け出しというよりは、プロオケの世界でも指揮をしている人だが、小川さんほどの知名度ではないひとだったこともあってか、「わかりました」といって、指揮者が妥協していたのだが。これは短い変奏曲の一曲だけの話しだったので、別段対立にもならなかったのだが、曲全体のテンポ感覚がまったく違ったら、やはり、調整はかなりむずかしいに違いない。だいたい、ソリストとオーケストラのあわせ練習などは、演奏会前に一度、当日に一度あわせるくらいだろうから、(私たちの小川さんとのあわせも、そういうスケジュールだった)通常にどちらかがゆずって、相手にあわせるのだろう。
 カラヤンのベルリンフィル最後の演奏会とされる、ジルベスターで、キーシンと共演した演奏がある。あれは、極めてゆっくりした演奏で、当然キーシンは、普段もっと早い、というか、普通のテンポでやっていたので、そうとうに戸惑ったらしい。ジルベスターの演奏会は12月31日だが、前の日にも同じプログラムで演奏会があり、そのときには、キーシンがかなりあわせるのに苦労していたという話が伝わっている。しかし、それを踏まえて、31日の演奏では、しっかりとカラヤンにあわせていた。不自然さがないほどに。もちろん、少年のキーシンがカラヤンのテンポに従わないなんてことは、ありえないわけだから、こういう力関係がはっきりしていれば、テンポのずれなどは、あまり生じないわけだ。
 
 つぎは、知人から聞いた話で、私自身が接したものではないのだが、あるピアニストを迎えて、チャイコフスキーの1番と2番のコンチェルトを一挙に演奏するというのがあったそうだ。ところが、超有名曲である1番では、まったく演奏がさえなくて、ほとんど演奏されない2番はとてもいきいきとした、すぐれた演奏だったというのである。そんなことありうるのか、とその演奏会を聴いた人はいっていた。私なりに、そうなった原因を考えてみた。
 その演奏会では、オーケストラだけのプログラムはなく、前半が1番、後半が2番というものだったようなので、リハーサルには、全部ピアニストが参加して行われたはずだ。しかし、ピアニストにとっても、オーケストラにとっても、1番は頻繁にやっている曲だが、2番はほとんど経験がないに近いほどだったろう。ロシア人ならいざしらず、そうでない国のひとで、2番を普段から演奏会でとりあげている人など、ほとんどいないだろうし、また、オーケストラも滅多にやらないから、はじめての楽団員もたくさんいたに違いない。もちろん、その演奏家の組合せでもはじめてだった。しかも、2番が後半のメインプログラムになっていた。そうすると、私が想像するに、1番は簡単な部分的チェックだけで済まして、2番の練習にほとんどの時間をかけたのではないかと思うのである。1番はしょっちゅうやっているのだから、なんとかなるだろう。しかし、2番ははじめてなので、とにかく入念にやっておかないと、ということになるだろう。
 ところが、1番もやさしい曲ではない。プロだから、曲を弾くことがむずかしいのではなく、かなりテンポを動かす部分が多いので、そのテンポの合わせが、はじめてのひとでも、練習なしに合わせられるというものではない、という意味だ。プロだから、なんとか合わせるとしても、かなり手さぐり感がでてしまう。
 私が習っていたチェロの先生がでるので、演奏会を聴きにいったときに、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲があったのだが、なにか自信なげにオーケストラがあわせているのが、感じられた。次のレッスンのときに、そのことを話したら、外国人だったのだが、ホルン奏者が練習のときと、全然違うテンポで演奏したので、オーケストラは面食らってしまい、あわせるのに懸命だった、ということだった。おそらく、このチャイコフスキー1番も、そういう雰囲気だったのではないだろうかと思ったものだ。テンポを急に落としたり、速めたりするところが頻発するのだが、どの程度やるのか、ということが明確になっていないと、お互いに手さぐり感がでてしまう。普通のオーケストラ曲なら、オケと指揮者だが、ソリストが入ると3者の手さぐりなので、余計はっきりしてしまうのだ。
 コンチェルトを聴くときには、どうしても、指揮者とソリストの「どちらがボス」という面に興味がいってしまうのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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