処理水海洋放出 最終的には「人間」に対する信頼だ

 ついに、政府は、福島原発における処理水の海洋放出に踏み切った。もちろん、大きな論議を呼んでおり、とくに福島の漁業関係者の反対は強い。政府や東電がいくら、トリチウムはそれほど危険ではない、そして、規準の40分の1まで希釈している、だから、安全だ、国際規準のうえで問題ないといっても、原発は安全だという安全神話を振りまいてきたひとたちの後継者がいっているのだから、最終的な信頼がないわけである。だから、結局、水掛け論になって、落ち着きどころがない。「結局金だろう」といって、非難をあびた大臣がかつていたが、そんな大臣のいうことを信頼するはずもない。
 結局は、相手を信頼できるという問題に帰着するのではないだろうか。
 
 私自身は、これだけ大量の処理水がたまり、たしかに、規準という観点からみれば、危険とはいえないまでに(ほんとうにそのように処理されているならば)処理されているならば、いつかは放出せざるをえないことは、認めざるをえないし、それは結局海洋放出になるだろう。国際機関もそれを許容しているわけだ。

 だが、それでも、やはり、信頼できない部分があることも率直にいうとある。そもそも、そのトリチウムは、それほど危険なものではなく、しかも、規準の40分の1まで希釈しているといっても、それはそのような説明をしているだけで、自分で確認することはできないわけだ。福島原発事故に関係なく、実は原発は危険なものであることは、合理的にものを考える人であれば、誰でも認識していた。なかでも、正確に認識しているひとたちは、原発を運営している当のひとたちなのである。危険だから、大消費地にはつくらず、遠くの人のあまり住んでない過疎地に設置するわけだ。遠くであれば、高圧線の費用や送電ロスがあるから、余分なコストがかかる。消費地に近くに原発をおけば、そうしたコストをさげられる。コスト至上主義者みたいな経営者が、なぜ、余分なコストがかかる遠隔地に設置するかといえば、原発は危険なものだからだ。だから、いくら安全だといっても、それだけでは信用されないのである。今回の処理水も同じことだ。
 
 福島原発は、実は事故のはるか前から、津波による危険性があることが、充分に認識されていたのである。そして、それは国会でも質問されていた。その質問に含まれる対策をとることを拒否したのは、当時の安倍首相である。コストがかかること、安全神話が傷つくことをおそれたのかも知れない。しかし、危険性が認識されていたということは、対応が可能だったということに他ならない。つまり、当時の安倍内閣が、その危険性を素直に認めて、対策をとるように東電に命令しておけば、事故は防げたかも知れないのである。
 これは、「安全だ」という神話を振りまくことで、本当に必要な、安全のための施策を全部おこなうことを回避してしまうことこそが、最大の問題であることを示している。安倍首相の答弁でもわかるように、原発関係者は、安全のために必要なことを、やりきらずに、適当なところでさぼっていたのである。だから、防げる事故を防ぐことができなかった。そして、そういう安易な姿勢であることを、国民の少なくないひとたちが見ぬいている。だから、「信用できない」ということになる。処理水だって、実は、いいかげんな処理をしているかも知れないのだ。原発事故をひき起こしてしまったひとたちが、ちゃんと処理しているといっても、そういう説明だけで信用しろといっても無理である。
 
 では、どうしたらよいのだろうか。それはやはり、「行動」で示すことだろう。原発の運用で、最大限の安全措置を施すことを確実におこなわせるには、本社が原発敷地内にあることがベストである。本社がそこにあれば、考えうる最大限の安全措置を施すだろうし、そうしていると、市民から信頼されるはずである。実際にそうしている国があるそうだ。それはフィンランドである。だから、フィンランドでは、国民の原発に対する信頼感が高いという。
 では、処理水はどうか。けっこう前のことだが、麻生氏が、処理水の安全性をいうために、俺は飲めるよ、といったことがあったそうだ。そのとき、実際に飲んでみせればよかったのだ。東電のひとたちが、実際に処理水を記者たちの前でとりだしてきて、それを記者たちの前で飲む。そういうことを定期的におこなえば、処理水はたしかに安全なのだ、人体に危険はないのだ、と認識するだろうし、また、漁業にたいする風評被害もなくなると期待できる。なぜ、東電の幹部たちは、そういうことをしないのだろうか。
 これは、かつてたしかO150の問題がおきたとき、問題だったカイワレダイコンを、記者たちの前で食べた首長がいたと記憶する。そういうパフォーマンスは感心しない、という見解もあったが、安全性が危惧され、それを推し進めようとするひとたちが、それを食べたり、飲んでみせることは、「行動」で自分たちの主張を確認してもらう、非常に有効な手段である。他にもいろいろあるだろうが、こうした「行動」で示すことは、やはり覚悟がいることでもある。しかし、本当に安全だと、国民に説明して、放出するのであれば、そういうことが、国民の理解をえることになる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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