五十嵐顕考察26 木村久夫をめぐって

 保阪氏の著書『きけわだつみのこえの戦後史』を読んで、再度、五十嵐の木村久夫認識を整理しておく必要を感じた。(前に書いたことと重なる部分がある)保阪氏は、当然、最晩年の五十嵐の文章だけを読んで判断しているわけだが、(別にそのことを批判するつもりはない。彼は五十嵐研究をしているわけではなく、あくまでも、わだつみ会の歴史を研究しているなかで、五十嵐について触れているだけだからだ。)五十嵐は、若いころから木村に、強い関心を寄せていた。『きけわだつみのこえ』は、初版ではないようだが、かなり早い時期に読んでいる。そして、最初から木村の文章に強く注目した。他の手記は、戦死ないし戦病死したものであるが、木村だけが、BC級戦犯として刑死させられた人物だったからである。そして、五十嵐がいいつづけたことに「自分も木村の運命をたどったかも知れない」ということがあった。しかし、基本的な木村への感情は、私は「コンプレックス」だったと思う。その意識は、ずっとかわらず生涯もち続けたと考えられる。それはどういうことだったのか。
 五十嵐は、平和を語るとき、つねに、自分は、あの戦争の問題を認識することができなかった、当時最高の教育を受けていたにもかかわらず。そして、その反省から、戦前の教養のあり方を問い、政治のありかたを批判し、戦後になって、再び戦前のような政治、教育にならないように、運動を続けた。そして、この流れで木村を語ることはなかったが、木村への拘りは、この戦争反省と結びついていたと、私は考えている。「私も木村のようになる可能性があった」ということは、どういう意味だったのか。

 それは、五十嵐は、繰り上げ卒業組であり、帝大卒として、将校として戦地に赴いた。他方、学徒動員だった木村は、一兵卒だった。しかし、繰り上げ卒業と学徒動員との違いより、大きな意味として五十嵐が感じたのは、自分は戦争にある程度疑問をもっていたのに、なんら行動を起こすことがなかったが、木村は、学生時代に反戦の訴えをしたために、要注意人物であった。それが、将校への道を閉ざし、一兵卒となり、現地で上官の命令で、捕虜取り調べの任務をさせられた。そして、そのときのことが死刑の理由となってしまった。五十嵐は、戦争の問題を認識できなかったと語っていたが、それは程度問題であって、それなりの問題意識をもっていたことは確かだった。それは、東大の学生時代に、矢内原の講演会に出たことがあるからである。矢内原は既に、戦争反対の意思表明をしたことによって、東大教授を追われており、その講演会は、常に特高警察の監視つきであった。そこにでかけていくのは、何も問題意識のないものではありえない。戦後、頻繁に矢内原を引き合いにだして、戦時中に戦争反対をすることができた人物の代表として、敬意を表明していたのは、実は戦前からだったと解釈できるのである。
 つまり、木村は反戦の意思を表明することができたのにたいして、自分は反戦の意識をもちながら、何もいえなかった、そして、徴兵されて、帝大卒としての資格を活用して、将校になった。だから、戦犯に問われるようなことをしないですんだ。木村は、反戦活動をしてしまったために、一兵卒となり、戦犯になり、処刑されてしまった。五十嵐は、木村とまったくつながりはなかったのだが、このことが、五十嵐の「負い目」になったのである。五十嵐は、戦時中に、戦争の意味を理解できなかったのではなく、ある程度理解していたのに、行動できなかったことを反省していたのである。それが、木村にたいしての拘りとなって現われたが、戦後、五十嵐の教育学者としての活動が、行動する教育学者であったことに、結果として現われたのである。
 
 五十嵐が、東大教授でありながら、いわゆるアカデミックな研究業績を積み上げることよりは、民主的な教育運動の先頭にたっての理論活動を徹底させたことは、こうした木村にまつわる「反省」が重要な要因であったと、私は考えている。1960年代から70年代にかけて、五十嵐が活発に教育運動のリーダーの一人として活動していた時期には、それほど木村久夫がその論文に登場することはなかった。戦前への批判も反省のさいも、必ずしも木村に触れないことのほうが多かったと思う。
 しかし、晩年、とくに中京大学に移ってからの五十嵐は、木村久夫研究に執着するようになる。それは、何故か。私のまったく推測だが、それは、再度の深刻な「反省」を迫られたからだと思われる。戦前、卒業論文でペスタロッチについて書き、戦後、復員して国立教育研修所に勤務していたときには、アメリカの教育財政制度、教育委員会制度について、集中的な調査研究をしていた五十嵐は、その後東大に移り、やがて社会主義者になり、民族独立運動を重視するようになる。アメリカ研究は、私には、放り出したように映る。そして、とくに、ソ連、中国、北朝鮮の教育を高く評価するようになる。実際に訪問したのは中国だけだが、朝鮮民主主義人民共和国では、文字とおりの教育の無償が実現している、とまで書いていた。確かに、1960年代前半くらいまでは、豊かな北と貧しい南、といういわれ方をして、北朝鮮は工業が発展しており、農業国である南は貧しい生活をしていると、学校で教えていた。そして、日本人妻が、夫と一緒に北朝鮮に渡っていったわけである。
 しかし、その後天安門事件、北朝鮮のひき起こしたいくつもの国際的なテロ事件があり、ソ連のアフガン侵攻が続く。そして、ソ連自体が崩壊してしまった。これは、五十嵐に深刻な反省をせまることになったはずである。不幸なことに、70年代後半から、五十嵐は深刻な健康上の問題を生じ、以後は、病との闘いを伴いながらの研究活動にならざるをえなかった。もし、五十嵐が万全な健康状態だったら、北朝鮮、中国、ソ連の状況をふまえて、以前の自己の研究活動を総括し、新たな歩みを始めたかも知れない。しかし、その点については、何ら触れない状況を続けた。沈黙という選択については、当然議論の余地があるだろう。とにかく、そのことには触れることなく、しかし、何もしないわけにはいかないし、強い後悔の念もあっただろう。
 木村久夫が、再び取り上げられるようになったのは、第二次大戦に対する「認識不足」という「反省」でもって、社会主義社会への認識不足の反省を投影させたのではないか、というのが、私の現在の理解なのである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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