昨日注文していた本『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』加古陽治(東京新聞)が届いたので、加古氏の解説的文章を読んだ。解説的といっても、本書の半分をしめるかなり詳しいもので、木村の生涯と遺書をめぐる事実を解説したものだ。遺書については、従来、遺書は田辺元の著作の余白に書き込まれたものだということだったが、実は、それ以外に父親宛の手紙としての遺書があり、これまで公表されていた遺書は、そのふたつを部分的につなぎ合わせ、順序を入れ換えたものであるという事実を示し、本来の形に戻してふたつの遺書として示したのが、この本書の主旨である。遺書そのものの従来版の加古氏のいう真正版との違いは、今後精査するとして、とりあえず関心をもったのは、木村の生涯と裁判をめぐる動向、そして、その後の木村の対応についてだった。そういう点で、加古氏の解説文は非常に興味深く、五十嵐の文章を読んでいるだけではわからなかったことが、大分でていたと思う。ただ、この本は五十嵐の死後大分経ってからの出版であり、加古氏の独自取材も反映されているので、五十嵐が知らない部分があったことは、仕方ない。
まず、木村がなぜ一兵卒となり、将校試験をうけなかったかについてであるが、加古氏はそこについてはまったく触れていない。五十嵐の感じていた木村の反戦的姿勢という点でも、触れるところがない。将校試験をうけなかったのは、木村の純然たる意思であるように書かれている。しかし、実際には、もっと事情があったと思われる。それについて想像させる部分が一カ所ある。
高知高校に在籍しているとき、木村は好きな科目は一生懸命勉強するが、嫌いな科目、教師がいやな科目は徹底的にさぼっており、そのために、二度落第しているというのだ。そして、卒業するためには、どうしても嫌な(ドイツ語だったとされる)科目を再履修しなければならないので、退学を考えて、級友たちにその気持ちを伝えるところまでいったが、ある日、突然まったく表情もかわり、いきいきとして、勉学を続けると宣言したのだそうだ。そのきっかけが、河上肇の『第二貧乏物語』を読んだことだというのだ。当然、木村の性格としては、そうしたことをとくに憚ることなくまわりのひとたちに語っただろう。そしてその結果京都大学の経済学部に進学するわけだ。もちろん、そのとき、河上は京都大学にはいなかったわけだが、そうしたいきさつを木村は同級生たちに遠慮なく語っていたにちがいなく、そして、それは直ちに特高警察の耳にはいったはずである。徴兵検査で、乙種合格になり、結核に罹患していることがわかっていたのだから、通常徴兵されることは、かなり遅くなったはずであり、そのことで木村も喜んだが、そうした予想に反して、早い徴兵で、南方に送られたのである。
だから、加古氏は書いていないとしても、やはり、当局に目をつけられていて、早期に徴兵され、困難な南方に送られ、将校試験をうけられなかったか、あるいは受けても合格できないことが予想されていたか、という状況だったことは、ほぼ間違いないのではないだろうか。
五十嵐がコンプレックスを感じる要素は、確かにあったと考えられる。そして、戦後の五十嵐の生き方に多大な影響を与えたことは、前回述べた。
さて、加古氏は、木村が罪を問われた事件と、裁判の過程、そして、判決後の木村の行動を、簡潔に書いている。
いよいよイギリス軍が反攻してくると思われる時期に、村民のスパイ容疑がおこり、英語が堪能で、普段から村民との交流を図らせていた木村が、尋問担当になり、そこで、暴力を用いたかが、裁判で争われることになる。棒で叩いたことは、木村も認めているが、それよりも、木村たちの尋問の結果数名が処刑されたことが大きかったのではないだろうか。そして、その後、木村がタッチしているわけではない、スパイ容疑での大量処刑が行われたのだが、敗色濃厚になったときに、この件を不安視した指導部が、隠蔽工作を行ったというのだ。まず、裁判なしの虐殺だったのだが、軍事法廷を実施したことにして、そのストーリーをでっちあげた。そして、埋めた死体を掘り起こし、火葬した。そうして、裁判なしの虐殺事件を隠蔽したのである。木村の関与した事件よりは比較にならないくらい甚大な問題だったが、その件は結局たいして問われることがなかったようだ。
木村が裁判にかけられ、このとき、上層部から圧力があり、事実をのべてはいけない、と口止めがされたことは、五十嵐も再三指摘している。
この裁判に関して、保阪氏が、五十嵐の「木村加害者論」の証拠としているので、その件を検討しておく必要がある。五十嵐の最後の著書である『わだつみのこえを聴く』のなかで、五十嵐から手紙を受けとったイギリス人の手紙が掲載されている。オクスフォード大学に籍をおく、戦争犯罪研究の第一人者だそうだ。五十嵐は、木村が裁かれたときの裁判の生の記録を読みたいと考え、いろいろ知人に依頼してコピーを入手し、数百頁というその記録を読んだようだ。そして、プリチャード氏に手紙をだしたわけだが(共同研究に参加の意向を伝えたようだ)、そのなかで、イギリスの軍事裁判が「公正で正義にかなった」ものであった、と五十嵐がプリチャード氏に書いていたと、プリチャード氏が紹介している部分がある。そのあとで、五十嵐の戦時裁判に関する研究姿勢(裁く側、裁かれる側、そして住民の側がともに考慮されねばならないが、従来住民の側は無視されていた)を紹介しているのだが、この「公正で正義にかなった」という部分が、五十嵐への疑念をもたらしていると考えられるのである。これは、五十嵐からこういう手紙をもらったという、受取側の紹介だから、原文がどうだったかはわからないが、当初、報復裁判だったと感じていたが、かならずしもそうではなく、裁判としては公正に行われたと、五十嵐が判断したのだろう。
しかし、だからといって、判決が適切なものだった、と五十嵐が考えていたとは、この文章では明らかではない。裁判は、ひとつの形式があり、その形式が保持されて進行することが、裁判としての公正といえる。そういう形式としての公正さが保たれていても、かならずしも適切な判決になるとはかぎらないのが実際である。というのは、弁護人が非常に稚拙であったり、間違った弁護方針をとったために、かえって裁判官の心証を悪くして、不利な判決がでてしまうことは、少なくないからである。加古氏によれば、木村の裁判での陳述はかなり矛盾したものであったという。というのは、上官たちから、真実を話してはいけない、ということを、固くいわれていたから、一貫した弁護ができなかったのである。これは、木村自身よく理解していただろうと思われる。しかし、上官の命令にそむくことはできなかったのだろう。だが、いざ死刑判決をうけると、腐敗した上官への怒りが燃え上がり、上官たちが行った理不尽な処刑やその隠蔽工作を、どこまで書いたかどうかはわからないが、自分に命令をくだした上官たちの行動を告発するような上申書を提出したが、それは受けとられることすらなかったという。というのは、そうした裁判後の上申書は一件について一部であり、既に別の上申書がでていたかららしい。木村の腐敗した上級軍人たちへの批判意識は極めて強烈で、彼等こそが国家を滅ぼすものだという怒りにまで達している。
つまり、木村の判決は、住民たちのいつわりの証言に加えて、木村自身の苦しい状況による、辻褄のあわない弁論が、不利にしたという側面があったわけである。そうすると、裁判は公正に行われても、木村の死刑判決はありえたということになる。だから、「自分は死刑になるような悪いことはしておらず、やったのは上層部だ」という木村の言葉にたいして、五十嵐は異論を唱えていないことから考えれば、やはり、木村への判決は不当なものだったのだ、と考えていたと、私は思うのである。(つづく)