最近続けて高校生が裁判員になる可能性にかんする記事がでた。
「高校生も裁判員になるかも!? 熊本地裁で体験イベント」
「「死刑か無罪か」高校生も裁く時代に 法教育と受験は両立できるのか」
主に、裁判員になることを前提に、どのように法教育をするかというようなテーマの記事だが、そもそも、裁判員になるとはどういうことなのか、どのような人生経験が必要なのか、というような基本的な議論が必要なのではないだろうか。アメリカの陪審員制度は、有罪か無罪か、民事であれば、原告と被告のどちらが正当かだけを決めるのだが、日本の裁判員裁判は、基本的に凶悪犯罪の刑事訴訟が対象で、多くが死刑を含む判断が要求され、そして、量刑も議論の対象になる。受験勉強を続けている高校生や、受験勉強から解放されたばかりの大学生、そして、まだ働き始めたばかりの労働者が、そうした人の人生を決定するような判断をまかせられるのか、私は大いに疑問である。
裁判員制度自体にも、私はあまり賛成ではない。実はコロナ流行中に候補者になったという通知がきたが、その後選定されるかどうかの手続のまえに、対象裁判が延期になったということで、通知をもらっただけになった。私自身は、裁判員は経験してもよいとは思ったが、制度自体には、賛成ではないのは、市民感覚を判決に反映させるというが、それは厳罰化を実現する手段という背景が強くあったことによる。私は、死刑廃止論ではないが、刑罰の厳罰化には賛成ではない。厳罰化して、社会が安定するとは思えないし、必要なことは、矯正教育であると思うからである。死刑以外は、結局社会にでてくるのであり、そのときに、犯罪をしないような人間になることと、そうした罪をとりあえず償った人を社会が受け入れる体制をしっかりさせることが、厳罰化よりは、社会の安定のためには有効であると思うのである。
すべての人がそうだとは思わないが、犯罪に関する要因、犯罪者の背景、刑罰の効果や歴史等に、比較的理解の幅が小さいほど、厳罰主義的になるのではないかと思うのである。そうすると、高校生は、凶悪犯罪を裁く場に身を置けば、まずはまわりの大人たちに強く影響されるであろうし、傾向として、厳罰的思考になるのではないだろうか。悪いことをしたのだから、厳しく罰せられて当然だ、と。
しかし、人を裁くことは、やはり、裁く側の人間の社会的経験やきちんと思索できる知的水準が必要なはずである。それはやはり社会にでて、何年間の人生経験が必要なのではないだろうか。
さらに、最低限の法的な知識、法的な原則を理解していなければならないが、日本の学校の教育には悲惨なほどに欠落しているのである。さらに、学校では、人の権利が哀しいまでにないがしろにされている。教育のブラック労働はその象徴であるが、労働がブラックなだけではなく、教師に認められる権利が、驚くほど制限されているのである。そういう状況で、教師が適切な法教育ができるはずもない。また、生徒の側でも、いじめが深刻な問題になっており、いじめを起こさないような教育も確立していないし、逆に教師がいじめの出発点になることすらめずらしくないのである。それは、教師自身の権利が抑圧されていることの反映でもあるのだが。
もちろん、すべての学校がそうであるとはいわないが、そうした学校が少なくないことは事実であり、そういうなかで育ってきた高校生や大学生、若き労働者が、適切に人の犯罪、それも凶悪犯罪を裁くことができるとは、なかなか思えないのである。人の生死にかかわることだから、間違いがあってもならない。
私は、衆議院議員への立候補の権利をもつ年齢と、裁判員になる年齢を一致させればいいと思う。選挙権は、成人年齢にあわせてもよい。いろいろな政権を知って、どのひとのよいかを判断するのだから、成人になればそうした判断はできると考えてもよいだろう。しかし、被選挙権は、選挙権とは区別されている。つまり、選ばれて国政や地方自治の仕事をするためには、それだけの経験が必要であるということが、より上の年齢に制限されていることの理由だろう。私は、その制限は妥当だと思うのである。ある意味では、裁判員が負う責任は、議員よりも重い場合もあるといえる。議員活動によって、人の命が奪われることは、通常はないが、裁判員裁判で死刑判決をだせば、一人の命が奪われるのである。
どうやって、高校生が裁判員として活動できるような法教育をするか、というのではなく、もちろん、法教育は必要不可欠だが、裁判員の年齢下限をあげるべきかどうかを議論すべきではないだろうか。