五十嵐顕考察28 木村久夫をめぐって3

 晩年なぜ、あれほど木村に拘ったのか、について考えてみたいと思う。
 最初に断っておきたいのだが、五十嵐著作集の編集メンバーに参加しているが、私は五十嵐教授のゼミ生ではなく、指導教官は持田栄一教授だった。当時、ふたつのゼミは対立的であるとみられていたが、内部進学生にとっては、両方の教授に教わることは、ごく当然のことであって、対立的だったのは、大学院から入学してきたひとたちだった。だから、私が持田教授を指導教官に選んだのは、大学院ではドイツの教育制度を中心に研究しようと思っており、持田教授はドイツ留学からかえって間もない時期であり、さかんにドイツ留学の成果を著作にまとめていた時期だったからである。したがって、五十嵐教授の授業にもでていた。

 しかし、両教授は外部の仕事が忙しく、院生の研究指導などはほとんどしなかったから、とくに五十嵐教授とは、ほとんど交流はなかった。ゼミの学生は、さすがに、個人的に話したり、喫茶店でコーヒーをご馳走になったり、手紙をもらったりしていたが、私の場合は、そういうことはまったくなかった。その代わり、持田教授とは、そうした交流があった。手紙をもらってことはないが、五十嵐教授は、大量の手紙をだすことで有名だった。
 なぜ、そんなことを書くかというと、私は五十嵐教授にたいして、ある種感情的な、人間的な思い入れはまったくないということを断っておきたいからである。そうではなく、むしろ冷静に、教学者五十嵐顕を評価したいのである。当然、偉大な教育学者であったと思うから、著作集にエネルギーをさいているが、すべてを肯定しているわけではない。それは、ゼミ生だったひとも同じかも知れないが、冷静にみている点では、ことなると思う。
 そして、この晩年の五十嵐の木村久夫への拘りは、五十嵐の人間性を非常によく現われているとともに、やはり、教育学者五十嵐としては、大きな欠点が現われたと思うのである。
 
 1977年に東大を定年退職して、1984年に中京大学の教授になっている。通常、五十嵐ほどの著名な東大教授であれば、定年後、すぐに他の私大に移るのだが、五十嵐は、定年以前の3年ほどは、重い心臓疾患で、ほぼ教育・研究活動から離れていたことが、空白を生んだ事情だったように思われる。そして、病気のこともあり、このころから、重い論文調の文章はほとんど書かなくなり、中京大学に赴任後は、もっぱら木村久夫関連の文章を中心に書いていくようになる。そして、やはり、1988年から1991年にかけてのソ連崩壊は、五十嵐の執筆活動に決定的な影響を与えたと考えられる。
 1989年1月に「同時代の問題に真正面から取り組む知性を」と題する文章を『子どもと教育』に発表後、こうした時代に関わる話題での文章は、みられなくなる。そして、この文章の主旨にもかかわらず、五十嵐が、文字どおりの「同時代の問題」であるソ連の崩壊と東欧の離脱という、極めて重要な問題に真正面から取り組むことはなかった。1991年に行われた「教育のペレストロイカをどう見るか」という興味深い座談会があるが、五十嵐が語る部分の多くは、過去のことであり、進行中のペレストロイカや東欧諸国の離脱の動きについては、語ることがほとんどない。
 つまり、ソ連の崩壊は、ソ教研(ソビエト教育学研究会)の中心メンバーだった五十嵐にとって、決定的に重要な意味をもっていたが、その後、極めて特徴的な方向で、活動を始めたといえる。それは中京大学におかれていた平和に関する授業(複数教員が分担して講義する形式)で、木村久夫を中心とした講義をしてきたわけだが、それを前面にだして、最後の著書として刊行すべく集中的な努力をかたむけるようになった。出版社との約束もできていたが、結局、完成することなく、高校生への講演の最中に倒れて、そのまま亡くなってしまう。つまり、1989年に書いた「同時代の問題」に自らは正面から取り組むことから避けてしまったのである。
 
 さて、五十嵐はなぜ、最晩年、あれほど木村に拘ったのだろうか。五十嵐が若いころ、つまり、『きけわだつみのこえ』が発売された当初から、木村の遺書に拘っていたことは、前述した通りであるが、そのときの拘りと、晩年の拘りでは、明らかに内容が大きく異なっている。当初は、五十嵐自身の、戦争認識の不充分さの反省として、木村が対比されていた。また、日本国民全体の戦争責任と、戦争政策の遂行者たちの戦争責任の問題を考える、重要な素材として、木村を扱っていた。
 しかし、晩年は、自分の問題は、表向きはとくに強調せず、木村の精神的なことを一貫して問題にしている。つまり、理不尽な判決を受けて、処刑されることになり、それを受け入れられたのか、心の安らかさを獲得できたのか、というような死と向き合う木村の心情を、あれこれ想像するような文章が目立つのである。もちろん、戦争責任の問題がないがしろにされているわけではない。だが、あきらかに戦争責任論は、後景に退き、木村の安心立命をえられたかを、五十嵐は自問するのである。
 そういう自問自答は、五十嵐が長年主張してきた社会主義教育論が、崩壊してしまったと感じていたことからの、自分の救いを求めるための自問自答の代替であったように、私には思われるのである。五十嵐は、私の一年先輩であるゼミ生のひとりに、「私が教えたことは全部忘れてください、間違っていましたから」と述べたそうである。前後関係や詳しいことはわからないが、語られた私の先輩が、五十嵐の追悼集にそのように書いている。ソ連崩壊後、一切そうした「現実の問題」について書かなくなったのは、自分は間違っていたという認識が、間違いなくあったのだろうと考えられる。しかし、健康ではなく、高齢になった五十嵐が、それまでの研究を総ざらいして、新たな枠組みを構築することなどはとうていできなかったろう。そして、ある意味、間違ったことを主張し、間違ったことをずっと学生たちや市民たちに教えてきてしまったという、ある種「罪の意識」から、どのように心の安寧を獲得するか、ということに集中していったとしても、それは不自然なことではない。
 
 私がずっと五十嵐の論文を読み続けて、ひとつ感じることは、五十嵐は宗教的な人だったということだ。母親は熱心な仏教の信者で、家でも熱心に念仏を唱えていたという。少年時代の五十嵐は、それを否定的に感じていたが、母親は、救いを求めていたと考えられ(五十嵐が小さいときに、夫を亡くし、その後ひとりで子ども3人を働きながら育てた。救いが必要だったことは、用意に納得できる。)小さいころには否定的だったが、青年以降の五十嵐は、ときおり、やはり、救いを求めるような発想がのぞかれるのである。
 人生の最終段階になって、それまでの信念が、客観的状況によって崩れてしまい、その不安に対峙するために、木村久夫が選ばれた。木村に問いかける形式の文章があるが、あの問いは、自分への問いだったのだと考えると、自然に理解できる。(つづく、五十嵐の文章に即して考えてみたい。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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