統一協会の解散について、正反対の記事がでている。ひとつは、文科省が、秋に解散のための手続にはいるというもの。すると、裁判になるわけだ。それにたいして、それは間違いないが、既に解散命令の判断を裁判所はださないことで、手打ちができている、というものだ。実際のところは、まだ手続にはいっていない段階なのだから、文科省が本当にそうするかどうかもわからないし、また、裁判所に判断が委ねられた段階で、本当に、予め「手打ち」などが可能なのか。そういうことが可能であるとすれば、日本は、法治国家とはいえない。木原事件をみれば、既に法治国家など、とうに死んでいるともいえるのかも知れないが。
統一協会の解散は、当然のことだろう。もっとも、解散といっても、日本における宗教法人としての法人格を失うだけで、宗教団体としてなくなるわけではない。オウムは、殺人事件などを多数おこしていたから、宗教団体としても解散し、別団体に分裂したが、統一協会は、本部が外国にあり、宗教団体として、どうどうとこれまでとおりの活動をするのではなかろうか。しかし、税金を収めなければならないから、活動内容が、これまでよりはずっと国家機関によって把握されることになる。また、統一教会は、韓国に対する、日本における資金収奪の機関だったが、その機能は若干低下すると思われる。それにしても、あれほど批判されたにもかかわらず、集団結婚式が行われ、日本からも多数参加したというのは、不可思議なことだ。
さて、本当に、岸田内閣は、統一協会の解散にむけて進むのだろうか。自民党はもちろん、岸田執行部ですら、統一協会関係者は、かなりふくまれていて、手がきれたとは思えない状況のようだ。そうした中心人物である萩生田氏などは、政調会長として、自民党の政策の中心をになっている。こうした状況で、比較的関係が薄いとはいえ、岸田首相が統一協会の解散に突き進めるかどうかは、かなり疑問視される。ただ、唯一、その可能性があるのは、支持率が低いので、なんとか、支持率をあげるためのひとつの方策として、統一協会の解散を実現する姿勢をみせることだ。それはそれで、やらないよりはずっとよい。(話題がそれるが、岸田首相の支持率を気にする姿勢は、いかにも政治的信念が欠如していることの現われであることを感じさせて、なんとも情けない。政治家としての堅い信念と実現したいことの政策があれば、支持率などを気にせず、がむしゃらに実行すればいいだけのことだ。)
何度も過去主張してきたが、あくどいことをしている宗教団体は他にもある。車で走っていると、ときどきとんでもなく豪華でばかでかい建物をみることがあるが、ほとんどの場合、宗教団体の建物である。中世ならいざしらず、現代において、宗教団体が、あのような建物を必要とするはずはないし、もし、建物が意味をもっているとすれば、お金集めと関連している以外には考えられない。資金集めの原因であり、また、結果である。現在の宗教が、個人の内面にかかわる問題に取り組み、個人の信仰の対象以上のものであること、あるいは個人の内面などはどうでもいいこととして扱われていることの証拠である。旧来の宗教は、歴史的にみれば、ほとんどが権力そのものだったのであり、その結果として、租税が免除されていた。現在、どのような経緯で、宗教法人が無税になっているかは、詳細をしらないが、権力との癒着の結果であることは、いうまでもない。現在でも、大きな宗教団体は、創価学会をのぞいて、自民党の有力な支持団体である。この構造が、自民党が宗教団体の無税体制を維持し、その見返りとして自民党を支持する結果となっている。
しかし、現在の憲法で明確にされているのは、宗教は私事であって、純粋に個人の問題なのである。だから、国家は宗教と関わりをもってはならないことになっている。そして、信教の自由が保障されている。したがって、宗教団体が「公益」法人ではありえないのである。もし、本当に公益法人であるならば、その公益事業にたいして、国家は援助すればよいし、また援助すべきであろう。それが禁止されていることは、宗教が公益ではなく、私益にかかわる団体であることの裏返しであることを意味している。
そうである以上、宗教法人への非課税は、まったく理屈にあわないのであって、むしろ、社会への貢献を意識するのならば、積極的に、宗教団体は税金を払うべきなのである。内村鑑三は、税務署が不要だというのに、所得税を払っていたという。国民として当然のことだ、という理由だった。もし、宗教団体が、健全なる意識をもった人々の集まりであれば、国家に税を払うことを当然と思うはずである。そうすれば、あのような法外な建築物など建てることはむずかしくなり、逆に、本当に信徒たちの内面の癒しの活動に専念するのではないだろうか。
統一教会の解散は当然であるが、そのことで、宗教団体の問題が解決するのではないことを銘記すべきだ。