アシュケナージのソロ集が届いて、けっこうな枚数聴いてみたが、あらためて、この曲はこう弾かれるべきものだ、という確固たる安定感があることに気がつく。それは、ベートーヴェンでも、シューベルトでも、シューマンでもそうなのだ。特別に個性的な演奏ではない、というより、そういうことをまったく志向しない、ごく標準的な解釈で、充分に音楽として感動できるのだ、という姿勢だろうか。
しかし、実は、これは、かなり努力して獲得したことであることは、あまり知られていないかも知れない。アシュケナージは、子どものころにピアノを習い始めて、教師にいわれたことで、できないことというのが、なかったのだそうだ。それは自分で語っている。ポリーニも、自分には技巧的に難しくて弾くことが困難だ、だから技術的な克服のために練習する、というようなことは一切ないと断言していた。だから練習とは、テクニックのことではなく、あくまでも作曲家と向き合い、ただしい解釈を獲得するためのものだといっていた。アシュケナージにとっても、似たような状況だったのだろう。しかし、ソ連の音楽というのは、やはり、西欧の音楽とはかなり違う。だから、ソ連やロシア人の演奏家で、ベートーヴェンもモーツァルト、ブラームスを得意とする、あるいは、誰をも納得させるような演奏をする人は、実に少ない。ソ連、ロシアのピアニストで、ベートーヴェンのソナタ全曲録音をした人は、いないのではないだろうか。キレリスは、めざしていたようだが、完成していないし、リヒテルやホロビッツは、ベートーヴェンを幅広く演奏するという姿勢ですらなかった。ホロビッツのベートーヴェンは、私には、かなり違和感がある。
そういう雰囲気のなかで育ち、教育をうけたアシュケナージが、亡命して、西欧に帰化して、西欧の演奏家として出発したとき、自分の音楽感覚では、ベートーヴェンやバッハ、モーツァルトを演奏できない、あるいは正しいとはいえない解釈になってしまうということに気づき、基礎から勉強しなおしたという。これは、このソロ録音集の解説のなかの文章で紹介されているが、前にも雑誌のインタビューで読んだことがある。既に世界的な大家ともいえる存在になっていたにもかかわらず、基礎から勉強しなおした、というところに、アシュケナージの芸術家としての姿勢、良心がはっきりと現われている。
学ぶことが好きなのだ、ということもあるにちがいない。まだバリバリのピアニストだったときに、地元のアマチュアオーケストラの指揮をしていたのだそうだ。それで次第にオーケストラの指揮に興味をもち、これもそうした時期から本格的に勉強をして、ピアノ協奏曲を自分で指揮するなどからはじめて、指揮活動を広げていく。これもかなりの勉強が必要だったろう。
こういう姿勢は、やはり、極めて希有のことなのではないだろうか。
世界のトップクラスの演奏家として認められていながら、かなり基礎に立ち返って勉強しなおした人というのは、ルービンシュタインを思い出す。まだ戦前のことだが、ホロビッツが西欧に進出し、当時、実力と人気で他を圧倒していたと思い込んでいたルービンシュタインが、ホロビッツの演奏を聴いて、打ちのめされてしまったのだという。もちろん、それでルービンシュタインの人気が奪われるものではなかったろうが、ルージンシュタインは、自分の奢りに気づき、テクニックの勉強をやりなおしたのだという。そして、戦後のショパンの第一人者としての地位を確立していったわけである。ルージンシュタインは、自分も、また他のピアニストも、冷静かつ客観的にみることができ、自分に足りないものがあれば、率直にやりなおすことができた人なのだろう。
アシュケナージも、そういう最良の素質を同じようにもっているように思われた。それが、当初はぎこちないと思われていた指揮活動でも、すでにトップクラスの指揮者となっている。しかし、当初はオーケストラのひとたちからも、半信半疑のような扱われ方をしていたらしい。たしかボストン交響楽団に客演したとき、リハーサルの最初が、弾き振りのモーツァルトの協奏曲だったのだが、あるオーボエの演奏に注文をつけたのだが、奏者があまり納得していない風だったので、アシュケナージが、「いまあなたはこのように演奏したのだけど、こういう風にやってほしいのです」といいながら、ピアノで、オーボエ奏者の演奏を模倣し、それからやってほしい表情をピアノで弾いてみせたというのである。それが、実にリアルにオーボエ奏者の演奏にそっくりにピアノで表現してみせたので、オーケストラのメンバーがびっくりして、それ以来、指揮者としてのアシュケナージを信頼するようになったというのだ。もちろん、まだそのときには、指揮ぶりや言葉で、やってほしい音楽を表現して伝えることは十分でなかったのだが、音楽そのもののイメージは明確にもっていることがわかったということだろう。そして、もちまえの熱心な勉強姿勢で、指揮者としてのテクニックを身につけていったのだろうと思う。私は、まだアシュケナージ指揮のCDはもっていないのだが、youtubeやテレビでは何度もみている。おそらく、デッカとして室内楽篇の次に、指揮者篇をだすのだろう。そのときには、やはり購入してしまいそうだ。
最後に、具体的にはかかないが、アシュケナージの若いころまでのことを書いた著作を読んだことがある。借りた本なので、手もとにないから詳細は忘れてしまったのだが、そこに、亡命の経過があった。外国の演奏旅行にでるときには、かならずKGBの担当者が二人ついて監視するのだそうだ。そういう体制に嫌気がさしたのだろう、亡命をするわけだが、常に監視されているなかでの亡命だから、かなりの準備が必要であり、また危険な行為だ。それを読んで、ソ連で芸術家がおかれた環境(すべてが悪いわけではない。才能があれば、最高の教育をうけられる)を理解する上でも有益な情報だった。