愛知トリエンナーレ3 芸術の自由を考える

 愛知トリエンナーレの中止になっていた「表現の不自由展その後」が再開になることが決まったが、そのあともいろいろと解決できない問題があるようだ。文化庁からの補助金が拠出されないことになっており、事態はまだまだ流動的だ。そして、表現の自由、芸術の自由に関する議論も、さまざまなに出されている。
 毎日新聞の9月1日付けに奥山亜喜子氏のインタビューをまとめた記事が掲載されている。氏によると、ドイツ憲法には芸術の自由が規定され、「文化政策では、支援はしても(内容には)口出しをしないのが原則」のだという。 “愛知トリエンナーレ3 芸術の自由を考える” の続きを読む

教師が教師へのいじめ 残された教師集団による自己検証が必要だ

 今更いじめが起きても驚かないが、新学期になって立て続けに「教師による教師へのいじめ」が二件も報道されたのには、驚いた。最初は9月12日の毎日新聞「小2~3年の担任4人 2学期開始から休む 教員間でトラブル?奈良・郡山南小」という記事である。この事情は、続報がないのでよくわからないし、また、記事の内容も不可解な点がある。要するに、あるひとりの教師に対して、ある教師が厳しく接したために、他の3人の教師と一緒に、8月下旬校長に訴えた。そして、9月2日から体調不良を理由に学校を休み、連絡がとれない状況であるという。3カ月の急用が必要という診断書を郵送で提出したそうだ。校長が調べたかぎりでは、パワハラなどは確認できなかったと書かれている。
 トラブルがあったとしても、1対1の関係と理解できるのに、その一人を含めた4人が一切に休暇をとるというのが、私にはあまり理解できない。休んだ4人は20代から50代だという。
 そして昨日10月4日の新聞に、「無理やり激辛カレー・卑猥書き込み強要、小学校教員、同僚からいじめ 神戸」という記事だ。こちらは強烈で、既に写真などもネットに掲載され、多数のコメントが出ている。 “教師が教師へのいじめ 残された教師集団による自己検証が必要だ” の続きを読む

二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?

 今日東京二期会の公演「蝶々夫人」を東京文化会館で見た。実は「蝶々夫人」はあまり好みのオペラではなく、プッチーニは「ボエーム」だけあれば、と思っているほうなのだが、今回はイタリアの若きマエストロ、バッティストーニが指揮をするというので、出かけた。バッティストーニは、「トロバトーレ」「オテロ」に続いて、3回目だ。1987年生まれというから、まだ32歳だが、指揮者として既に巨匠ではないかと思われるほどの活躍をしている。「トロバトーレ」と「オテロ」は、ヴェルディだからやさしい、とは言わないが、直球勝負でいけると思うが、「蝶々夫人」はかなり変化球が多いし、前二曲と違って、音楽的魅力において少々劣るから、指揮者の力量がシビアに試されるのではないか。スコアをみると、私などにもわかるのだが、拍子感からかなりずれたメロディーがよく出てくるが、それは、rit. を大げさにやるように書いてある。しかし、いきなりrit.を遅くすると、つながりが不自然になるから、自然にテンポを緩めながら、rit.を伸ばすように演奏しなければならない。オケと歌手をあわせるのも、こういうときには、難しいだろう。そういう部分がふんだんにあるし、テンポも頻繁に変わる。マーラーの後期の作品も同じような傾向があるので、お互いに影響しあっているのだろうか。
 昭和の終わり頃か、あるいは平成の始め頃か、「蝶々夫人」は日本を侮辱しているのではないか、特に、「蝶々夫人」は初演が失敗しているために、何度も書き直しが行われているが、その過程で、そうした侮辱的要素が生まれてきたのではないか、というような議論が、何度か行われていた。 “二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?” の続きを読む

読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社

 京都にある佰食屋は、食べ物好きの人にとっては、有名な店らしい。テレビや雑誌でも何度も紹介されているのだそうだ。私は、食べ物にほとんど興味がないので、まったく知らなかったが、週刊誌の本紹介欄に出ていて、面白そうだから読んでみた。もちろん、料理などではなく、経営理念に興味が沸いた。
 簡単に紹介すると、ステーキの店、といっても、ステーキ丼、ステーキ定食、ハンバーグ定食の店と、牛肉寿司定食、牛肉茶漬け&肉寿司定食、牛和風まぜ麺の店、すき焼き定食、味噌鍋定食、サイコロステーキ定食という、いずれも3メニューしかない3店のみである。いろいろ試行錯誤があったようだが、結局、一日100食のみ、しかもランチタイムのみという営業形態の店になっている。
 この本は、こうした店を開くきっかけ、開店から3年ほどの困難な時期、結局行き着いた営業形態、そしてそのメリットについて、分かりやすく書かれている。この店が、好評なのは、何よりも料理がおいしいからだろうが、(もちろん、私は食べたことがない。)本が面白いのは、型破りの経営を何故しているのかよく理解でき、それが実に新鮮だからだ。 “読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社” の続きを読む

化学物質過敏症で通学困難な生徒

 今日のHarbor Businessに「学校に通いたい……教室に充満する過剰な「香り」で化学物質過敏症に苦しむ女子高校生」という記事が出ている。化学物質過敏症に罹患している女子高校生が、生徒たちが使っている様々な化学物質で処理した服などの香りで、目眩、頭痛、過呼吸などを引き起しているので、母親が、クラスの保護者に丁寧な事情説明の手紙をだして、原因となる柔軟剤や合成洗剤などを控えるようにお願いしたところ、そのクラスでは協力的で改善されたのだが、学校全体としては取り組まれていないし、また、通学途上の交通機関で体調が悪化するという事態になっている」という記事である。
 この化学物質過敏症は、診断が難しく、他の病気と間違えられやすく、また、病気と認めないような医師もいるのだそうだ。診断ができる病院が全国的に少数で、正しい診断と治療をしないために、どんどん病状が悪化する事例が多数あるという。ある調査によれば、可能性の高い人が全体の0.74%、可能性のある人が2.1%なのだそうだ。正確な診断が難しい病気なので、ウェブで調べる限り、書いている人たちによって数値が異なるのはやむをえないが、可能性が高い人0.74%というと、大雑把にいうと、300人いれば2人はいることになる。高校などは、通常1000人近くいるわけだから、7名程度の人が該当する計算になる。 “化学物質過敏症で通学困難な生徒” の続きを読む

キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?

 山梨県道志村「椿荘オートキャンプ場」で、行方不明になった小学一年生の当日の経過が、両親によって明らかにされた。毎日新聞掲載の内容をそのまま引用する。

21日午前
9時    一緒にキャンプするメンバーの一部が到着
  午後
0時15分 美咲さんと母、姉がキャンプ場に到着
1時    昼食後、子供たちがテントを張った広場近くで遊ぶ
3時35分 おやつを食べ終えた子供たちが沢に遊びに行く
  40分 美咲さんが後を追いかけて行く
  50分 大人が子供たちを迎えに行く
4時    美咲さんがいないため、捜し始める
5時    日没が近づき警察に通報
6時    警察官が到着
8時    子供たちを寝かせ、大人は捜索を継続
22日午前
1時30分 仕事を切り上げた父が到着。3時まで捜索を続ける “キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?” の続きを読む

トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に


 9月29日の毎日新聞に、「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪」という記事があった。昨日は毎日新聞のページで読んだので、ただ今日コメントを書こうと思っていたのだが、今日ヤフーニュースで読むと、6000件ものコメントがついていた。とうてい読みきれないので、それは読まずに、書くことにするが、かなり関心を引き起こしたことは間違いない。
 どのような記事かというと、今年の5月に、中学生2,3年と、小学生5,6年の合計331人に、スクールカウンセラーが行った授業だそうだ。内容は、以下のように紹介されている。

 「プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。」

 そして、授業の趣旨は、以下のように説明されていた。 “トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に” の続きを読む

アントリス・ネルソンスのカルメン 40年経つと同じ演出でもずいぶん違う

 youtube を開いたら、偶然ネルソンス指揮の「カルメン」があった。ネルソンスには興味があるので開いてみると、それは、2018年1月のウィーンでのライブ、しかもフランコ・ゼッフィレルリの演出となっている。見てみようと思い、2幕まで視聴した。ウィーンやミラノなどの常設歌劇場は、ひとつの演出で公演が行われると、その演出でしばらく上演が続く。とはいえ、長く続く演出は、どのくらいあるのかわからないが、このカルメンはプレミエが1978年、カルロス・クライバーによる有名な演奏だから、40年続いていることになる。同じゼッフィレルリのミラノにおける「ボエーム」は1963年がプレミエなので、半世紀以上続いていたし、世界中で採用されている演出である。彼の他の演出もけっこう広く、かつ長く継続しているので、理由があるのだろう。私が推測するに、彼の演出は、とにかく「豪華」でお金をかけていることがすぐにわかるのが特徴だ。ゼッフィレルリは、ギャラはあまり要求しないが、演出にかかる費用は惜しむな、という姿勢を保持していたらしい。それは舞台を見るとすぐにわかる。
 まず最大の特徴は、人がたくさん出てくることだ。ボエームの第二幕、カルチェラタンでは舞台を2段にわけて、それぞれぎっしりと人がのっている。クリスマスのカルチェラタンに繰り出した人々なのだが、200名はのっているといわれている。通常こうした人々は合唱団なのだが、そんなに合唱の人はいないし、また必要でもないのて、単にぶらぶらしていくだけだ。カルメンでも、第一幕は、煙草工場の側ということになっているのだが、工場の女工、軍隊、行進する子どもたち、女工にいいよろうとする男たちは、ドラマ上必要な人たちで、どんな演奏でもいるが、そこに、教会の学校で学ぶ生徒と神父とか、物売りの人、単に歩いている人たちなど、とにかく大勢が舞台を行き交っている。ところが、プレミエのクライバー版と、今回のネルソンス版では、人々の扱いが大分違っていた。人数も半分くらいしかいない。同じ演出なのだから、もちろん、似ているのだが、40年もたっているし、当人がなくなっているので、指導はできない。当然変化していくわけだろう。
 一番の違いは、クライバー版では、とにかく出ている人たちが動く。有名なハバネラをあげてみよう。ハバネラは、恋には気をつけろというような内容だが、カルメンは、群衆たちの間を歩き回り、何人もからかい、ちょっかいを出しながら歌う。そして、ちょっかいをだすたびに、周りの人たちが喝采をおくる。紳士のポケットから懐中時計をとりだして、見せびらかし、紳士が返してくれと追いかけるというような場面もある。とにかく、みていても面白いのだ。ところが、ネルソンス版では、カルメンがハバネラを歌っているときには、ほとんど動かず、合唱やオケの演奏になると、動き出す。群衆は、あまり動かないし、はやしたてもしない。
 一時、(今でもそうかも知れないが)演出家がオペラ上演のイニシアをとり、やたらに歌手に対して、動きながら歌わせるような演出があった。オペラといっても、劇だから、当然動きはあるのだが、あまり激しく動くと、やはり歌うことに支障がでるかも知れない。適度に動くと、歌いやすいという歌手の話を読んだことがあるが、おそらく、ゼッフィレルリの動きは、歌手にとって歌いやすいものなのだろう。動く場面は、他に、カルメンに男たちがいいよる場面、子どもたちが行進して出てくる、また出て行く場面、カルメンがホセを突き飛ばして逃げる場面など、クライバー版ではまわりの人たちや当人が活発に動き回るのだが、ネルソンス版では、動きが限られている。兵隊たちをまねて行進する少年たちが、ネルソンス版では、直立不動で聴衆のほうを向いて歌っていたのは、少々興ざめした。
 クライバーの演奏はプレミエ(その演出の初めての上演)だから、かなり練習が行われる。普通指揮者などは細かい練習には参加しない人が多いらしいが、このときのクライバーは、かなり早い段階から、稽古に立ち会って、ゼッフィレルリとの相談もじっくり行っていたらしい。だから、動きなどは徹底的な指導が行われたのだろう。煩わしいという人もいるようだが、私には、いかにもドラマを見ているようで、楽しい。しかし、演出家が離れ、時間がたっていくと、だいたい動きは少なくなり、経費の関係で舞台にのる人も減らしていくのだろう。舞台上で進行するドラマという点では、ネルソンス版は物足りなさを感じた。
 演出でもうひとつ面白いと思ったのだが、舞台が煙草工場の側だし、女工さんも含めて、クライバー版では煙草を吸っている人が多く、舞台は煙が充満する感じなのだ。しかし、さすがに禁煙社会を反映してか、誰も煙草を舞台で吸う人はおらず、一度ホセが煙草を口にくわえるが吸うことはなかった。時代は、ずっと前だし、煙草女工たちなのだから、煙草をたくさんの人たちが吸っているほうがリアリティはあるが、そういうわけにもいかないのだろう。それに、出演者たちからクレームがでるかも知れない。
 肝心の演奏はというと、ネルソンスがウィーンのオペラをどのくらい指揮しているのかは、まったく知らないが、こうしたレパートリーの曲をするときには、指揮者が練習をすることはないので、いきなりの本番になる。映像にとるくらいだから、まったく練習しないのかはわからないが、おそらくぶっつけ本番だろう。個々のソリスト歌手に対しては、初めて出演する場合には、演技指導する必要があるので、そういうスタッフが個別に指導するようだ。カルロス・クライバーがウィーンのオペラと一緒にやってきて、「ばらの騎士」を振ったときには、事前練習とかでウィーンで3回指揮をして、それがDVDで市販されているのだが、そのときにはいろいろと演奏事故があり、オックス男爵が入りを間違えたので、2度目にはカットしたというような記事があった。クライバーは出演の条件として、日本でしっかり練習することを提示し、日本公演中の空き時間を利用して、オケをかなりしごいたらしい。つまり、くらいバーですら、ウィーンでの上演は、リハーサルなしだったのだろう。
 そういう状況で、ネルソンスが自分の意図を徹底できていたのか、少々不安なところもあった。歌手では、名前を知っていたのは、ミカエラのネトレプコと、エスカミリオのダルカンジェロだけで、他の人は、知らなかった。ネトレプコがミカエラを歌うのかと、疑問だったが、案の定、4人の主役級では、一番よくなかった。ミカエラは、若く純情だが、芯の強い女性であって、やはり、売り出し中の、声の比較的細い人が懸命に歌うような感じでないといけない。ネトレプコは、現在はあまりに大歌手であって、既にワーグナーを歌っている歌手だ。だから、どうしても大仰な歌い方になって、軽快に運ぼうという感じの指揮に対して、引きずってしまっていた。声もミカエラには太すぎる。有名人を出せばいいというものではないだろう。ただ、クライバーでは、ホセとの二重唱が半分に切られていたが、全部歌っていたのはよかった。
 ダルカンジェロは、モーツァルト歌いというイメージだったので、エスカミリオを少々重いのではないかと思った。懸命に強い闘牛士を演じようとしているのだが、私には空回りしているように聞こえた。まわりで聴いている人たちも、もっと盛り上げる動作をすれば、のって歌えるのではないか。
 ホセのマッシモ・ジョルダーノはまったく知らなかったが、正直、一番がっかりした歌手だ。クライバー版のドミンゴがあまりに素晴らしいので、どうしても比較してしまうが、いかにも、「演技しています」という感じで、それが歌にもでている。「花の歌」におけるドミンゴとの差は、あまりにも大きい。これで、一度は怒った女性の心を掴めるのか。ドミンゴのときの拍手は、爆発的で、いつ終わるのかわからないほど長く続いていたが、こちらはおざなりの拍手が10秒程度続いただけだ。
 肝心のカルメンだが、ナディア・クラステバ。主役級のなかでは、まあ素晴らしいと思った。悪女風のカルメンではなく、どちらかというと、「自由な女」として生きるカルメンだ。
 ただ、ネトレプコがカルメンをやればいいのではと思ったが、どうなのだろう。
 HMVでは出ていないようなので、少なくとも日本では市販されていないのではないか。そのせいか、クラシックの、それもオペラとしては異例の34万回も視聴されている。ちなみにクライバーは3万回だ。同じ歌劇場の同じ演出の同曲聴き比べは、いろいろと面白い発見がある。
 

大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる

 現在行われているセンター試験に代わって、来年度から「大学入学共通試験」が導入されることになっている。最初に、大学入試センターの試験は、「共通一次試験」という名称だったから、「共通」が復活したわけだ。何が「共通」なのかは、正確にはわからない。というのは、少なくとも私立大学の多くが参加するが、義務ではないし、私立大学の場合には、センター試験は、おそらく別枠になっていると思われる。当初、センター試験の改革案として、大学に入学する者全員が受けなければならない「資格試験」という構想もあった。それが採用されていれば、明確に「共通試験」だったと思うが、採用されなかったので、率直にいって、「共通」の意味はよくわからない。
 それはさておき、大きな改革点は、国語と数学に記述式問題が導入されることと、英語に民間検定試験が採用されるという点だろう。問題の作成理念として、考えさせる問題を含むというようなことが解説されているが、およそ問題を作成するときに、まったく考えなくてよい問題など意図しないのだから、これは、大きな変更点とはいえない。 “大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる” の続きを読む

グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ

 昨年から気候変動への対応策があまりに不十分だとして、学校ストライキを始め、それが国際的に運動を引き起こしたグレータ・トゥンベリさんが、とうとう国連の会議に招待されて演説をした。彼女を招待した会議主催者に敬意を表したいし、それを評価する人たちが多いが、なかには、様々な批判をする人たちもいる。
 まずは、Foxニュースのコメンテーターだったマイケル・ノウルズ氏である。氏は、彼女のことを「精神的におかしい」と誹謗して批判が集中し、担当を解任されてしまった。さすがに、大きなメディアでここまで露骨に批判する人はほとんどいないが、ネット上の個人レベルの発信では、多数似たような非難がある。
 精神的におかしいという非難に対して、グレータ自身は、自分はアスペルガーであると公表し、アスペルガーであることで、逆に物事をあいまいにではなく、真正面からみて、それを素直に表現できるのだと返している。見事な切り返しだといえる。 “グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ” の続きを読む