いわゆる「新幹線殺人事件」に対する判決があった。無期懲役だった。殺人犯のあまりの身勝手さと、まったく罪のない無関係な人を、自分が「無期懲役刑」を受けるために殺害し、かつ、まったく反省もしておらず、むしろ、誇っているかのような発言を繰り返してきたことに対して、おそらく、多くの人は、死刑が求刑され、その通りになるだろうと考えていたのではないか。私自身は、その可能性はあまり高くないとは思っていたが、しかし、私が裁判員だったら、無期懲役には疑問を表明したと思う。求刑以上の刑罰というのは、ほとんどないわけだから、賛意はえられないとは思うが。
既に、判決への疑問は出されている。その思いは、「疑問」を感じる人には共通だろう。被告の言明や態度は、あまりに酷すぎる。そして、一生、刑務所で楽に生活していたい、ということを明言もしている。更に、有期刑で出所したら、再び殺人事件を起こすとまで公言しているのだ。殺害が一人で、初犯であれば、余程のことがない限り死刑判決はないということを、予め知った上での犯行でもある。
こういうことを、被告の思惑通りにしていいのだろうか、ということは、誰もが感じたことだろう。
刑法理論が、法律学としても、最も精緻に組み立てられていることは、よく知っているつもりであるが、しかし、そのために、逆に実際の刑を当てはめるときには、さまざまな矛盾が露呈することにもなっている。今回のケースは、それが現われたといえる。そこで、素人がきちんと考えた疑問を提示するのも有効だろう。
私は、基本的人権を重視する立場であるので、死刑廃止論だと思われることが多いが、死刑維持論である。もちろん、死刑廃止論の本はいろいろと読んだ。そのいずれにも、充分に納得することは、今のところできていない。廃止論についての簡単な検討をまずしたい。
死刑廃止論の検討
wikipediaによると、日本の死刑廃止論として
・人権の更なる尊重を推奨すべきという観点からの廃止論
・誤判可能性からの廃止論
・国際情勢からの廃止論
・国家による死刑乱用の可能性からの廃止論
の4つを示している。
人権を尊重すべきという点については、殺人は、他人の人権を究極的に破壊する行為なのだから、加害者の人権だけを尊重することになるのかという議論が対置されるだろう。新幹線殺人事件では、犯人はまったく反省もしていないし、出所したらまた殺人をすると、公言すらしているのだから、人権尊重の立場から、被告の死刑回避を導く論理は、私には、成立しがたいと思われる。
誤判可能性は、死刑維持論にとって、最もきちんと考えばならない論点だろう。実際に、戦後の日本で、冤罪で死刑判決を受けた人は、実数はわからないが、存在する。生きて冤罪であることを示せた人は、少数だろうとも考えられる。執行されてしまえば、永久にわからない可能性が高い。しかし、司法が民主的に機能していれば、冤罪を防ぐことは可能であると、私は考えている。永山基準がもちだされることが多く、それは死刑基準での複数殺人の意味であるが、最初の高裁判決の際に言われた、「誰が考えても死刑以外ありえない」という場合に限定するという見解のほうが重要である。死刑判決も多数決だと思うが、それを死刑のみ全員の合意とする。更に、客観的、物的な証拠が明確にある。本人がそれを認めている。こういう条件でのみ、死刑判決が許されるとすれば、冤罪の可能性はほぼなくすことができる。福岡の警察官による母子殺害事件での死刑判決は、この条件では不可になる。
国際情勢からの廃止論については、もちろん、国際的な批判はしっかり受けとめるべきであると思うが、きちんと自分の立場を説明すればよいのではなかろうか。オランダは、最初にソフトドラッグを合法化した「先進国」であるが、特にヨーロッパのまわりの国から相当な非難を受け続けた。非難側にも、大きな理由があった。オランダにいってドラッグを入手して帰国するひとたちが少なくなかったからである。しかし、オランダは毎年のように、そうした批判への反論をしているうちに、ソフトドラッグの合法化がむしろ拡大するようになった。私はドラッグ合法化論ではないが、国際的批判があっても、納得できなければ、反論すればよいという事例になると思う。
ヨーロッパの死刑廃止論の背景
歴史を見ると、欧米のほうが日本よりも不合理な死刑が断然多かった印象がある。例えば、同じような時期に宗教弾圧が、ヨーロッパにも日本にもあった。ヨーロッパでは魔女裁判、日本では絵踏み。しかし、ここには大きな違いがある。魔女裁判は、誰かの告発で行われ、ほとんど魔女でないことを立証することは不可能だった。告発=死刑に近かったのだ。しかし、絵踏みは、とりあえず本人の選択が可能だった。
20世紀の全体主義的ななかで、国家に批判的な者に対する弾圧、処刑、謀殺など、日本でも行われたが、例えば、ナチスのやり方と日本のやり方では、その苛烈さや量において格段の差がある。アメリカでの黒人への私刑やネイティブアメリカンへの虐殺などは、日本にはあまり類例がない。
こうした歴史的事実の「苛烈さ」への反省として、ヨーロッパでは死刑廃止論が確立したのだろう。しかし、歴史的背景が異なる日本が、そのまま受け入れる必要があるとは思えないのである。
国家による乱用は、常に警戒すべき事態である。これは、死刑に限らない。むしろ重要なのは、メディアなどのコントロールである。メディアがしっかりと国家を監視していれば、さまざまな国家による権利侵害を抑制することが可能だが、メディアがコントロールされれば、抑制の保障がなくなっていく。逆に、国家が乱用を繰り返せば、国家は非合法でも、事実上の処刑を行う。小林多喜二は、決して死刑判決を受けたわけではない。
上記以外の廃止論の検討
さて、wikipediaがあげた論以外にも、死刑廃止論の論点はある。
まず犯罪抑止論である。死刑廃止論者は、死刑には抑止効果がない、その証拠に殺人事件はいくらでもあるではないかという。しかし、これは納得できない。殺人事件は確かにあり、その件については抑止効果がなかったことになるが、殺してやりたいと強く思って、ある程度までいったが、途中で思い止まったという人は、いくらでもいるのではなかろうか。その場合、自分が死刑になったら損だ、という判断が働いた可能性は充分にある。新幹線殺人の犯人も、2人では死刑になるので、1人にしよう、というのは、もう一人殺すと死刑になることが抑止力になったという、あまり考えたくない事例であるが、抑止の例にはなっている。
次に、国家が殺人を禁止しているのに、国家が殺人を実行するのはおかしいという論理がある。これは、厳密にいえば、国家が犯罪者を罰すること自体を否定してしまうことになる。警察が逮捕して、拘置所にいれるのは、一般人がやれば監禁罪だ。罰金の徴収も、権力を背景にお金をとるのだから、恐喝にあたる。しかし、これらは、私刑を廃止するために、そして、社会全体の安全を保障するために、国家が代替して実行するわけである。死刑だけが、例外なわけではないだろう。
残酷な刑だという批判もある。死刑というのは、殺人には違いないから、そのこと自体残酷であることは間違いない。それを合理化することは、「応報刑」の考え以外にはないだろう。「応報刑」の立場にたてば、残酷な殺人をやったのだから、死刑もやむをえないということになる。
そこで、現在の「刑」の思想である応報刑と教育刑について考えざるをえなくなる。
教育刑と応報刑は、基本的には矛盾する考えかただ。それが露になるのが、死刑である。応報刑では許容される死刑が、教育刑では、教育刑自身が否定されることになる。もし、すべての受刑者が、教育的対象であり、かつそれを望んで社会復帰したいと考えているならば、死刑をなくすことによって、ふたつの考えの矛盾は解消されるかも知れない。しかし、その場合、新幹線殺人事件の犯人のように、出所したらまた、人を殺すといっている人、そして、その目的が再び刑務所での生活をするため、という場合、教育刑はありうるのか。また、いくつも事例がある、死刑になるために、誰でもいいから可能な限りの人を殺した、という犯人はどうか。どんなに弁護士が説得しても、自分は死刑でよい、自分は生まれてこなければよかったのだ、といって、控訴を拒否し、死刑を執行された者もいる。このようなひとたちを教育をするのは、かなり困難であり、あるいは逆に、死ぬまで公費で生活を支えることも、納得できない人が多いはずである。
結局、死刑は残酷だから避けるべきだ、終身刑(死ぬまで出所させない)は、公費で安定した生活を保障することでもあり、納得できない、このふたつのジレンマを解決する方法はないのだろうか。
応報刑と教育刑の矛盾の克服を
以下は素人の独断的考えであることを、最初に断っておくが、私はかなりまじめに考えている。
それは、「極刑をもって罪を償う以外ない」と判断される場合の刑を、二種類設定し、受刑者に選択させるという方法である。ひとつは、死刑であり、もうひとつは、3Kなどの重労働。少なくとも「教育刑」的発想をとるならば、刑を裁判官がひとつの形で押しつけるよりも、選択肢が可能であるほうが、更生には有効ではないかと思うのだ。もっとも、懲役とその他というのはありえないから、懲役刑では、何の仕事をするかの選択肢は当然あってしかるべきである。日本でも、そうなっていると思うが、韓国は比較的前から、選択できることになっていて、IC関連が人気だという記事を読んだことがある。異なる内容の選択が意味をもつのは、死刑か他のことかという点だろう。現在の刑務所での懲役刑が、どれだけの経済的利益を生んでいるかはわからないが、少なくとも囚人の生活費を全面的に賄えるほどの収益にはなっていないのではなかろうか。教育的意味があるから、通常の懲役刑はいいとしても、死刑をさける意味での「終身刑」は適切なのだろう。これには、どうしても疑問が生じる。公費で生活を保障する点以外にも、実は終身刑をとっている場合でも、本当に死ぬまで収監されている場合は少ないとされている。つまり、本当に終身ではないのだ。
本当に終身刑として実行するためには、懲役労働の収益性が高いか、あるいは、人の嫌がる重労働を課すというような方法で、国民の納得をえる必要があるのではないか。もし、死刑を望むなら執行し、苦しいが努力して認められるならば、再生したいということで、重労働を選択し、そのなかで変われば、釈放してもいいのではないかと思う。少なくとも、自分が変わりたいと思っている人間は、変われるものだ。だから、そういう受刑者には、死刑の代りに過酷な労働を課して、変わるための努力をさせる。変わりたくない者もいるだろうが、その場合、自ら死刑を選択すればよい。「新幹線殺人事件」の犯人には、この選択を課すことができればよかった、と私は真剣に思っている。読者の方はどうだろうか。
いずれにしても、死刑は人道に反するとか、あるいは逆に、殺人の罪は命で償えというような、単純で固定的な発想を越える必要かあるのではなかろうか。