週刊朝日12月27日号の記事「NHK「安楽死」番組に波紋…障害者支援団体が問題視する点とは?」が今日(20日)にウェブ版として掲載されている。これは、NHKスペシャルの「彼女は安楽死を選んだ」に対して、障害者や難病患者の自立的生活を推進する団体「日本自立生活センターJCIL」が、障害者や難病患者の尊厳や生命を脅かすと声明を出しただけではなく、放送倫理・番組向上機構BPOに調査・審議の依頼をしたことをきっかけとした記事である。
私は、この番組を当日見ていなかったので、後日の再放送のときに録画してあったものを、この記事を読んで、見てみた。実は、今回のような「安楽死」の実際が放映されたあと、同じ病気の患者の団体が抗議をしたということは、以前にもあった。オランダで、発病から安楽死を実行した過程を詳細に描いた番組が、TBSで放映されたのだが、ALS患者の安楽死だったので、ALS患者からの抗議だった。TBSは、そうした抗議を受けて、半年後に、安楽死した夫の妻にインタビューをして、その模様を放送した。抗議の趣旨は、今回と同じように、このドキュメントビデオは、ALS患者は安楽死しなさいというメッセージだということだった。ちなみに、オランダ人にこの番組のことを聞いたところ、実際にオランダで最初に放送されたわけだが、別に特別な反響はなかった、ごく普通に受け取られたということだった。
前回は、オランダ人だったが、今回は日本人であるので、より広範な反響があったようだ。私は毎年、「教育学」の講義のなかで、安楽死を扱うのだが、丁度その前に放映されたので、見ることができなかったことが残念だった。しかし、同様の抗議が行われていたことは、紹介した。
さて、このNHKの番組は、多系統萎縮症という病気にかかった女性が、スイスで安楽死を実行するまでの経過を映像におさめたものである。当初、治療してなんとか生きていこうと思っていた女性の考えが変わったのは、病院に診察にいったときに、人工呼吸器につながれた患者をみたことだったと語っている。自分の基本的な世話、食事をするとか、トイレにいくなどは、自分でできることが、「自分」が保持されていることだという意識が、彼女にとっては強いのだろう。世界で最初に安楽死を合法化したオランダ人も、そうした意識が強いとされている。そういうことができなくなり、呼吸すら自発的にできない状態は、自分の生の尊厳が侵されていると感じた。そこで、何度も自殺を図っている。いずれも未遂になるのだが、それは、自殺する力が既になくなっているからだった。その後、スイスでは外国人の安楽死も受け入れているということを知り、スイスの安楽死をコーディネートする会に登録し、順番を待つことになる。彼女は、ソウル大学に進学して、韓国語の通訳をしていたが、社会福祉関係の仕事に移ろうとした矢先に、発病し、その後は郷里に帰って、姉二人の世話を受けながら生活し、それから入院生活に入る。安楽死を考えていることを知った妹(遠くに住んでいる)が、何度も手紙を書いて、思い止まるように働きかけることも紹介されている。
結局、スイスに姉二人と一緒にいき、最終的な確認のあとで、安楽死が実行されることになる。オランダの映像では、医者が睡眠薬と塩化カリウムを注射するのだが、このスイスの映像では、点滴をセットして、自分でボタンを押す、つまり、自分の意思で実行するわけである。同行している姉二人は、もちろん、これでいいのかと自問し続けるわけだが、最終的には、これでよかったと納得したようになっている。番組の制作趣旨として、あまりきちんと議論されていない安楽死問題を、真剣に向き合うべきだと考えたとしている。
さて、この番組が、難病にかかっている人に、安楽死を勧めているのかというと、私はそうは思わなかった。まず、この女性よりもずっと重い状態の、同じ病気にかかっている女性で、延命措置を受けると告げて、わずかしか動かない筋肉を使って、まわりとコミュニケーションしている人が紹介されている。だから、それぞれの考えによって、異なる選択や生き方があるのだ、という基本的立場は保持されていると思う。
朝日の記事は、明らかに、安楽死を否定する立場から書かれており、安楽死を肯定するとは、結局難病患者の生命を脅かすのだ、また、生きにくくするのだというトーンで一貫している。そして、日本では、安楽死は合法化されていないという認識が示されている。
こうした記事を読んで、いつも思うのだが、それは日本の法の状況を誤解しているので、もっとしっかりと把握してほしいと思う。日本は、世界最初に、安楽死を合法にする(違法性阻却)条件を、判例で示した国なのである。1962年名古屋高裁判決である。これは、オランダよりも早い。名古屋の山内事件ということで知られている。しかも、そこで示された条件は、合法化されている国でも、ほぼ同じ内容で基準とされている。そして、その後の安楽死が扱われた裁判で、その条件は、否定されたことは、一度もないのだ。もっとも、それは高裁、地裁レベルの話だが、世界的基準に照らせば、最高裁でも同様の見解が示されるだろう。ただ、非常に明確になっているにもかかわらず、そうした条件をきちんと守って実行された安楽死が、これまでなかったのである。だから、すべてが有罪となっており、だから、安楽死が法で禁止されているという認識が広まっているだけなのだ。私は、こうした法の状況があるから、わざわざ安楽死を合法化するような立法をする必要はないと思っている。正面きって合法化するには、さまざまな面で問題が生じる可能性がある。
しかし、安楽死を肯定することは、同じ疾患をもっている人の生命を脅かすことになるということについては、まったく反対だし、人間どこまでも生きるべきだと決めつけるのも、また、人間性を脅かす発想だと思う。
人は、自分の人間としての尊厳を保持することが、絶対的に重要であり、それが不可能になったら、生きていたくないと感じる人がいる。みんながそうではないし、比較的日本人には少ない。しかし、そういう人がいることも事実である。更に、現代医学では、苦痛を完全に除去する医療は達成されていない。従って、苦痛に耐えがたい思いをしている患者もいる。そういう人に対して、苦痛に耐えることを強制することはできるのだろうか。緩和ケアがもっと重視されねばならないことは事実であるし、安楽死を合法化しているオランダでは、緩和ケアは極めて重視されている。もし、苦痛だけが問題であり、完全な苦痛除去が可能であれば、安楽死しようという人はいないはずなのだ。
ただ、オランダで、安楽死という制度がほとんどの国民に支持されているのは、むしろ、安楽死というシステムが、死の病にかかった者が、不安から逃れることを助けることになるからである。つまり、最後は苦しみ悶えなければならないのか、という不安に苛まれるが、安楽死という手段があれば、いざというときには、苦しまずに死ねるという安心感が生まれ、そのことによって、残された日々を、充実したものにしようという気持ちになれる人が多いと言われている。
最後にどうしても触れる必要があるのは、同じビデオを見ても、オランダ人は、冷静に受け取れるのに、何故日本人は、自分の生命が脅かされると感じるのだろうかという点である。オランダ人は、安楽死という制度を認めることと、自分がそれを活用するかは、まったく別だと考えている。どうしても安楽死をすることで、不安を解消したい人がいるなら、それを認めるのが当然だろう、だけど、自分はそうはしない。そういう発想がごく当たり前になされる。しかし、日本人は、どうしても、特に同じ疾患をもっている人は、自分にそうしろと言われているように受け取ってしまう傾向があるし、そういうことで抗議をする。それは、日本社会が、学校時代から、ずっと同調圧力が強く、常にまわりに同調することを強制されてきたから、このような番組も「同調せよ」といっているように感じるのだろう。だから、抗議の発想は理解できるが、やはり、人それぞれの人生、生き方は違うのだ、自分は自分の意思で決める、という姿勢が確立しないといけないのではないだろうか。