今回は、以前の『教育』1987年3月号で、この485号目で初めてスポーツクラブの問題をとりあげたということだ。この特集は30年も前のものだが、ここで指摘されていることは、今でも大きな問題であり続けているものがほとんどであることに驚く。もっとも多少変わった点もあるのだが。
最初に、正木健雄(体育学の専門家、大学教授)の「子どものスポーツ・『部活動』を考える」を取り上げる。正木氏は、ずっと子どもの身体の変化について調査をしており、身体能力の様々な面での低下を指摘している。
文部省は体育に力をいれており、現在では更にその傾向が強くなっている。そうした力のいれ方にもかかわらず、当時の子どもたちは、背筋力と柔軟性が低下していると指摘している。正木氏は、いつも、このふたつの身体能力が人間としての生活に、非常に重要であると考えていた。背筋力は、姿勢を真っ直ぐに保つ上で必須の力であり、背筋力が弱くなると、猫背になり、健康上の問題が起きるだけではなく、次第に、歩行などにも影響が出てくる。柔軟性は、人間が活発に動くために必要であり、柔軟性がなければ、動作そのものが制限されてくるし、危険に対する対応力も低下する。だから、正木氏は、いつでもこのふたつの能力の状況を問題にしていた記憶がある。
それから、最近増えているからだのおかしさとして、「ボールが目にあたる」という項目があがってきていると指摘する。ボール競技やボール遊びをしているときに、顔にぶつかりそうなボールをよけられない子どもが増えたということだろう。現在では、そういうことはあまり話題にならないが、おそらくこの指摘は、動体視力と柔軟性、出発力が低下しているということだろう。現在の体力測定、あるいは視力検査で、動体視力の検査はあるのだろうか。
先日文科省から、子どもの体力テストの結果が発表されたが、低下したと報じられている。数年前はむしろ向上していたとされるが、再び低下になったようだ。スマホの使いすぎでからだを動かすことが減ったからだ、という解説がなされていたが、長いスパンでみれば、遊び場がなくなったこと、習い事や塾などで忙しくなっていること、その結果集団遊びが極端に減っていることなどが指摘されているから、そうした背景のほうが重要であろう。
更に、正木氏が指摘していることは、血圧調節機能と自律神経調節機能が未発達の者が増えている点だ。その表れということだろうか、興奮する力と興奮を抑える力の双方が弱まっているという。氏によれば、興奮する力も、それを抑える力もともに必要なのだが、一方が低下したり、あるいは双方が低下している傾向にあるというのだ。たぶん、興奮するとは、ものごとに熱中するということだろう。つまり、ものごとに熱中したことがないので、興奮する力が育たない。逆に、怒ったりすれば、自ずと興奮するわけだが、それを抑える力が育っていないから、暴れたり、切れたりする傾向になる。
こうした子どもの心身の能力の低下の原因を、正木氏は、「1960年代以降、子どもたちはからだを使ったさまざまな遊びに、本気になって熱中し、遊びこみ、からだでわかったというところまでやって遊びを一つひとつ卒業するというようなことが次第になくなってきている。」「これは、烏が鳴くから帰ろうというくらいまで遊びこむなかで、大脳の興奮する働きが発達したものと思われるが、このような熱中できるものがなく、時間を気にした生活のなかで、また過保護に管理された生活のなかで育ちようがなかったのであろう。」などと述べている。
私自身のことを考えると、小さいころは、確かに、チャンバラごっこ、普通の鬼ごっこなどの子どもの遊び、小学校に入ってからは、毎日のように、学校から帰ったあと、そして日曜日は野球をやっていた。当時はまだリトルリーグやスポーツ少年団などはなかったので、完全に子どもたちだけの草野球である。場所はずいぶん遠くまでいってとったりしていたから、歩くことなどもかなりあった。だから、背筋力は問題なくあったが、小さいころから柔軟性はなかった。体が固かったわけで、いまでもそうだ。それは、まったく子どもだけの遊びや草野球だったので、きちんとした準備体操などをするわけもないし、いまではストレッチのような運動もしなかった。そういう意味では、スポーツ少年団などで、きちんとしたコーチがいることは、意味があることなのだと思う。おそらく両方が必要なのだろう。
最後のほうで、正木氏は重要な指摘をしている。氏は体育大学の教授なのだが、当然スポーツを大いにやり、優れた資質をもった学生たちばかりなわけだが、実は、学生たちの体力がいびつだというのだ。つまり、特定のスポーツ競技に特化した練習をしてきた学生が多く、そのスポーツに必要な体力は充分なのだが、あまり使わない体力は低いというのだろう。それは人間としてのバランス上問題があるし、更に、そうしたことに目を向けることができない人間的な資質としても問題があるだろう。体育の先生になる人が多いわけだから、バランスがとれていること、そのことを重要視できることは、とても大事だ。単にあるスポーツをやっていれば体力がつくわけではなく、多くのスポーツに取り組むことが必要なのだと主張している。たしかに、近年の科学的指導においては、他のスポーツなども取り入れて、バランスのとれた筋力の向上を図るような練習が、紹介されることが多くなっている。
次に、「これからの部活動はどうあるべきか」と題する座談会が掲載されている。
4人の出席者がそれぞれ、現在のスポーツや部活についての問題点を指摘しているので、それを最初に列挙しておく。
森薫(公立中学教師) 部活の問題として、
・生活指導優先主義
・全国大会が生まれて、試合が多くなり、勝利至上主義になっている
・顧問の部活の私物化→学級経営の困難化
・人権の軽視
・非科学的練習法、長時間練習の横行
・親が我が子中心主義
竹内常一(教育学)
・部活が学校内で特権的、治外法権的な権利を獲得している
・強い部活をもっている教師が特権的位置にいる
・よい成績を残している部活の顧問は進学で推薦権をもっている
広畑成志(スポーツ問題研究家)
・指導をしている教師の保障がなされていない。責任はとらされる
・地域ではまじめな人が指導しているが、専門的な指導力はない人がほとんど
中条一雄(元朝日新聞編集委員)
・日本のスポーツが発展したのではなく、ヨーロッパのスポーツを取り入れたが、組織そのものはヨーロッパの方式ではなく、学校に取り入れられ、競争主義となった
・スポーツを通して自主性を育てるという点がまったく欠けている
・画一化
以上のような論点で活発な議論がなされており、しばしば対立もしている。こうした雑誌の座談会としては、めずらしく白熱しているものだ。だから、面白い。部活を学校で行うことへの是非や社会体育として行う場合のあり方などについて、出席者によって多少のイメージの違いがあることが、議論となっているが、当時の部活については、大きな問題があることについては、共通認識がある。勝敗至上主義、非科学的指導(根性論)、部活で教師も生徒も生活を圧迫されていることなど。
しかし、この議論を読んでいると、今の状況とは、違う面もあったことがわかる。私自身が、当時既に研究者として大学に勤めていたので、共通のことを考えていたが、部活が全員参加制になっている学校が多く、その理由が、部活を生活指導の一環として位置づけられていたことがある。今の学生に話すとびっくりすることだが、当時学校が荒れていて、暴力傾向があったので、そうした生徒を部活にいれて、徹底的に練習させれば疲労困憊して、非行する元気がなくなるだろう、という意識の下に、部活指導が行われていた。そうしたことは、さすがに、今はないと思われる。
また、当時は、部活の顧問をすることは、教師の義務であるかのような雰囲気があって、断ることができる教師は、ごく稀だったのではないだろうか。しかし、今では、部活は正規の学校教育の領域ではないから、顧問になることを断る教師は少なくない。従って、部活の顧問を充当することは、校長にとって困難な仕事になっている。部活の顧問として、やるべきことをやれば、生活破壊になる可能性が高いわけだからは、断る教師がいることは、自然なことだろう。また、朝練、昼連、夜練を全部やるなどということは、今では特別な私立の学校以外には、ほとんどないだろう。しかし、当時はごく当たり前であった。私が中学のころも、いくつかの部活はそうだった。
この座談会では、竹内氏が、部活の社会体育化を強く主張している。ただし、この場では、それは条件的に困難な点が少なくないことが指摘されており、あるべき部活の統一的イメージは、結局語られずに終わっている。学校だけに依存するあり方は、当時としても、既に部分的になくなっていた。オリンピックをめざす体操選手、水泳選手などは、部活ではなく、地域のクラブに所属していたし、明確にプロをめざす野球少年は、中学時代に部活に入らずに、リトルリーグを継続している者も少なくなかった。そうしたひとたちは、今ではもっと多くなっているが、しかし、部活は相変わらず学校で主要な位置を占めている。私は、社会体育化論者だが、では、ここで指摘された困難はどうすればいいのか、という点については、別稿にしたい。
もうひとつ重要な論点として、遊びやスポーツは、単に体力を培うだけではなく、自律性も育てるものなのだが、非科学的な練習や、あまりにコーチなどが干渉的な指導をすると、大事な自律性が育たない弊害があると指摘されいる。人を教える場合に、忘れてはならないことだろう。