「天皇」に何を求めるのか

 現在の皇室典範では、やがて皇位継承者がいなくなるという可能性から、女系・女性天皇論をめぐって、相変わらず、というか、ますます様々な見解が飛びかうようになっている。しかし、この議論に絡んで、人々は天皇という存在に何を求めているのか、という点に関して、極めて大きな隔たりがあると感じている。あまりに単純化していると言われるかも知れないが、男系男子に限定する、現在の皇室典範を支持するひとたちは、天皇には何も求めていない、つまり、「存在」だけあればよい、という考えに近いと思われる。それに対して、女系・女性天皇を容認するひとたちには、二通りある。第一は、男女平等の民主主義社会であるから、男系男子に限るのはおかしい、だからは、男女に限らず直系の長子から順に決めればよい、という見解であり、第二は、現在の愛子内親王の存在を前提に、女性天皇を期待する立場である。この場合、愛子内親王が様々な面で秀でた能力をもっていて、天皇になる家庭で育っているために、自然とそうした風格も育っているという人物評価を重視しているように見える。
 実は、歴史的にみれば、天皇が選ばれる基準、あるいは資質などについては、大きな変遷を繰り返してきた。
 これもかなり大雑把な整理であるが、奈良時代くらいまでは、天皇は決して、そのときの天皇との血のつながりの近さ、例えば、長男であるなどで決まっていたわけではなく、それなりに、人物や能力の評価があったようだ。だから、奈良時代までは、子どもの天皇は存在しないはずである。そして、実際に、天皇は、政治に関与していた。政治的リーダーであると認められることが、条件だったといえる。もちろん、そういうなかでもまわりの権力争いが影響するわけだから、常にコンセンサスがあって、天皇が選ばれたわけではないだろう。
 平安時代になり、特に藤原氏の覇権が確立して、摂関時代になると、政治権力は藤原氏に移り、天皇は、多くが若年となり、直接政治に関わることはなくなった。しかし、院政に移行すると、天皇ではないが、天皇であった人が政治を担うようになるわけだが、これは、形を換えた天皇親政ともいえるだろう。だが、上皇や法皇は複数いるのが通常だから、そのなかで実質的な院政を行い、政治を動かす人物は、能力がなければならなかったはずである。
 武家政治になると、天皇の存在は、ほぼ実際に権力をもつものに対する、象徴的権威づけの機関となっていく。武家政権の成立以後、実際に政治的トップとして活動しえた天皇は、一人もいない。後醍醐天皇ですら、どれだけ実権があったかは疑問であり、あったとしても、その期間は極めて短かった。ただ、政治的権力者であろうとしていた、という点は明確で、それだけでも希有の存在だったといえるだろう。
 明治から敗戦までは、天皇は主権者であったが、ほとんどの場面で、実際の権力をもっていたわけではない。2.26事件での対応や、戦時中のいくつかの場面での対応は、まったくの飾り物だったわけではないことを示しているが、基本的に日本の政治を動かしていたのは、天皇ではなかった。天皇機関説事件が起きたとき、昭和天皇自身が、機関説を支持したということは、そうしたことを象徴的に示している。
 そのような意味では、戦後の天皇のあり方が、根本的に変わったようには、私には見えない。変わったとすれば、天皇主義者が、天皇を利用して政治を行うことが、難しくなった点だろう。明確に、天皇は憲法で定められた国事行為のみをすることが規定されているからである。しかし、実際に、天皇は外国からの重要な使節に対して接待をするという、大きな役割を果たしている。特に、新皇后が元外務省のキャリア官僚であり、かつ、数カ国語に堪能な、日本人としては類まれな能力をもっており、即位後数々の外国要人の接待で成果をあげたこと で、皇室の人々に対する、国民の要求内容が少しずつ変わってきたように感じるのである。秋篠宮家に対するネガティブな評価の増加は、決して小室問題だけではなく、こうした外交場面での評価も大きく影響しているのではないか。それを裏返す形での、愛子天皇期待論が高まっているような気がする。この立場からすると、安倍首相が「危惧」している、どちらがよいか、というような国論を2分する議論になってしまうから、その問題は議論の対象にしないというが、逆に、天皇になって、日本のために活動してほしい、その力をもっているのは誰なのか、という議論は、むしろ必要なのではないか、ということになるのだろう。実際に、歴史的には、そういう選び方をしていた時代もあったわけである。
 また別に、そうした資質論への危惧もある。能力があるから選ばれるということは、積極的に政治に関わることになり、間違えて独裁者になりかねない。だからこそ、天皇は政治には関わらないという規定にしたのであって、そうした憲法理念に反するという見解だ。だから、天皇は、「存在」だけに意味があるほうがいいのだという。男系男子論者は、そのようにも見えるが、むしろ、男系男子論の多くは、天皇を自分たちの都合で利用する意識が強いように思われる。戦前の天皇主義者たちがそうであったように。もちろん、天皇は政治に関わらない、という議論が、そのまま男系男子論になるわけでは決してないのだが。
 さて、こうして見ると、天皇という存在は、実に矛盾したものであることに行き着く。民主主義体制と完全に調和することはないのだろう。しかし、民主主義システムが、100点満点のものではないことも明らかだから、天皇という存在が、意味をもつことはあるのだろう。その際、長子継承とか、男系男子継承というように、予め血筋で順位を決めておくことが、その存在にとっていいのか、あるいは、継承資格者が複数いるようにして、そのなかから相応しい人を選んでいくプロセスがいいのか、議論の余地はあるのではなかろうか。むしろ、インターネットでの議論を見ていると、実質的にそのような議論がなされているようにもみえる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です