相撲の国際化と品格 白鵬のかち上げは非難されるべきか

 前回(12月23日)の国際社会論で、文化の国際化を扱う材料として、音楽の国際化を考えた。昨年初めて行った講義で、3月のこのブログに、文章化したものを掲載してある。その際、様々な領域の文化、スポーツなどで、国際化が進んでいるものとそうでないものがある。何故そうなのか、自分の好きな領域で考えてみようという課題を与えた。
 日本発祥のスポーツとして、柔道は国際化が著しいが、相撲は極めて限定的である。柔道は、世界中で活発に行われているが、相撲は、日本でしか行われていな。海外巡業がごく稀に行われたり、あるいは相撲をしたいという外国人が日本にきて力士になることはある。しかし、相撲が海外でも日常的に行われることは、今のところ全くないし、また今後も考えにくい。それは何故なのか、いろいろな理由があるだろうが、そのことも考えさせる文章が、JBpressの12月25日号に掲載されている。「横綱白鵬を開き直らせた的外れ批判の罪」という臼北信行氏の文章である。要旨は比較的単純で、白鵬が、立ち会いのかちあげや張り手を、横綱審議委員会を筆頭として、いろいろな方面から、「横綱の取り組みとして品格がない」とか「横綱はやるべきでない」と散々批判されていることについて、白鵬の、禁じ手ではないのだから、改めるつもりがないという姿勢を支持している文章である。むしろ、相手が、白鵬がそうした技をやってきたら、それに対する有効な反撃の技を繰り出せばいいことであるのに、それをしないほうがおかしいというわけである。
 この点については、普段から、私もそう思っていた。そもそもルールとして認められていることを、横綱だけがやってはいけないというのは、実におかしな話で、他のスポーツには、まったく例がないと思う。ゴルフでは、「ハンディ」というまだ上手でない人に、予め点数をあげておく方法があるが、あくまでもアマチュアの親善試合などでの話で、プロの正式の競技で適用されるわけではない。将棋の飛車落ちなどもそうだろう。純然たるプロの正式競技では、ルールは全員に対して平等に適用されるものだ。もし、かち上げや張り手を禁止するのならば、横綱だけではなく、すべての取り組みにおいて禁止しなければならない。
 しかし、ちょっと見方をかえて、では何故、日本人の横綱は、これまで「品位」なるものを重んじて、こうした技を封印してきたのだろうか。(本当に日本人の横綱が、かち上げや張り手を決してしなかったのかは、私自身よく知らないのだが、しなかったという前提で考えておく)それは、たぶん、横綱は将来が保障されていたからだと思うのだ。日本人の横綱は、まず例外なく、相撲界で問題を起こさずにいれば、引退後親方となって、後進の指導にあたることができ、つまり、生活が保障されている。もちろん、相撲界を去った元横綱はいるが、それは、自らの意思で去っている。
 ところが、外国人である横綱は、外国人である限り、親方になることができず、相撲界で生活が保障されるわけではない。このことは、もうひとつの重大な問題にも絡んでいるといえる。それは、貴乃花とモンゴル人力士たちの対立に象徴される。貴乃花がモンゴル人力士のグループを非常に問題視し、それが日馬富士の貴ノ岩への暴行事件への厳しい態度に表れたと言われている。そして、その理由が、モンゴル人力士は、互いに星の貸し借りをしているのではないかという疑惑である。周知のように、貴乃花は、八百長を徹底的に嫌い、ガチンコ勝負を続けた、極めて稀な力士と言われている。本当に立派で強い横綱だったわけだ。しかし、だからといって、モンゴル人力士の八百長を、単純に非難することはできないと、私は感じている。相撲は怪我の多いスポーツであり、他のスポーツに対して、報酬などは必ずしも恵まれていない。怪我をしたり、負けが続けば、引退に追い込まれる。そして、その後の保障はないわけだ。日本人力士であれば、ある程度のところまでいけば、年寄株を取得して、親方になる道も開けている。横綱のような確実性はないが、日頃の付き合いなどを大事にしていれば、決して不可能ではない。外国人力士には、その道は全くない。だから、長く相撲をとって、その間に貯金なりをして、引退後の生活の道を確保しなければならない。もし、外国人力士に対する差別的待遇がまったくないのであれば、互助会的星の貸し借りは、非難しなければならないが、上記のような差別がある以上、必要悪的な対応策になっているのではないか。だから、いいこととは思わないが、彼らがそうすることについて、非難する気持ちにはなれないのである。
 白鵬は、日本人に帰化したという。親方になって、後進の指導をしたいということだろう。しかし、だからといって、完全に日本人特有の「慣行」を心のなかでは認めてはいないはずである。ルールも処遇も、日本人と同じように外国人に適用されるべきだ、と考えているに違いない。外国人力士の参加を認めていながら、ここから先は外国人はだめだよ、という領域を設定するというのは、まったく非常識なやり方だ。外国人のコーチや監督を認めていないスポーツがあるだろうか。野球でもサッカーでも、外国人の監督が存在する。柔道だって禁止されているわけではない。柔道の選手から、外国人コーチが必要という声もあるくらいだ。役員たちは、日本の柔道は強いから、日本人コーチで充分だと考えているのかも知れない。しかし、相撲に関しては、近年の横綱をみれば、圧倒的に外国人に日本人力士は負けている。そして、相撲の人気そのものが、外国人力士にかなりの部分依存している。こういう状況で、外国人指導者を「権利として」認めないのは、相撲の発展のためにもマイナスだろうし、また、国際社会では容認されないだろう。
 ルールで認められている以上、今後もやる、という白鵬の姿勢は、間違っていない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です