「GIGAスクール構想」ということで、今後小中学生1人1台のパソコンをもたせる政策が歩みだしている。現国会の目玉の政策なのだそうだ。かかる費用が4000億円という気が遠くなのような金額だ。教育委員会が購入するのだから、学校備品ということになるのだろう。どの程度使われるか、どのように使うのか、よくわからないが、これまでの日本の学校教育のあり方からみて、大いなる無駄になる気がする。もちろん、私自身は、PCの教育を進めることには大賛成であるし、ずっと前から推進する必要があったと考えている。日本はIT教育が遅れていると言われているから、こうした構想が出てきたのだそうだ。しかし、これまでだってパソコンの授業はかなり前からあった。だが、そのやり方が酷い。その酷いやり方を生みだした要因を変えなければ、結局同じことになるだけだ。
官邸の教育再生実行会議が提唱したことだそうだが、おそらく、売れないパソコン業界の販売経路として、学校を考えたという側面が強いのではないだろうか。大学共通テストの民間検定試験の採用も、教育再生実行会議の提案だった。これが利権絡みであったことは、今や明らかだ。教育再生実行会議のメンバーに財界メンバーが多数入っていることを考えれば、景気回復の手段として構想されたと考えても不自然ではない。
では、これまでのパソコンの教育で、何が問題だったのか。 “GIGAスクール構想の疑問 1人1台のPC 効果があるとは思えない” の続きを読む
再び刑事事件の「責任能力」が問題に 洲本5人刺殺、死刑破棄で無期懲役に
2015年3月に、淡路島洲本で5人が刺殺される事件が起こった。全国に大きな反響があった大事件で、私も鮮明に憶えている。犯人は直ぐに逮捕され、裁判員裁判で死刑判決が出た。弁護側が控訴し、今日、一審判決が破棄され、無期懲役の判決がでた。再び、刑事責任能力が問われる難しい事例となっている。
通常の殺人事件であれば、5人を刺殺したのだから、死刑判決がでることは、当然と思われるが、この事件では、当初からかなり難しい要素があった。
朝日新聞の2017年3月22日号に次のような関連年表が掲載されている。
<2010年12月> 平野被告がインターネット上で他人を中傷し、精神科病院に措置入院
<2013年10月> 退院後、兵庫県明石市で一人暮らしをしながら治療
<2014年7月> 通院中断
<10月> 平野被告の母親から「息子が来るかも知れない。怖い」と保健所に相談。職員らが面談し、他人に危害を加える恐れはないと判断
<2015年1月> 洲本市の実家に戻る
<3月> 事件発生
<9月> 神戸地検が起訴。その後、裁判官、検察官、弁護人が公判前に争点などを協議
ここでわかることは、平野被告が精神的な疾患を患っていたことである。 “再び刑事事件の「責任能力」が問題に 洲本5人刺殺、死刑破棄で無期懲役に” の続きを読む
少年法年齢引き下げ見送りについて
選挙年齢の18歳への引き下げにともない、様々な「成人」に関わる年齢の引き下げが検討されている。最も重要な事項である少年法の適用年齢に関して、18歳に引き下げる案での法案提出を見送ったと報道されている。
日本の少年法は、一時世界で最も保護的であると言われ、右派のひとたちから散々攻撃されてきた。その後、アメリカでの厳罰化の動向に後追いする形で、日本でも多少の厳罰化が実施されている。殺人罪などの凶悪犯は、逆送致によって、大人と同様の裁判を受けさせることが可能になっている。今回の審議において、法制審議会の議論がまとまらない、つまり、政府の意向である引き下げに同意しない委員が少なくなかったということだろう。
子どもの犯罪を罰しない、あるいは軽い処罰にするというのは、古代からみられることであるが、子どもの年齢をどこまでと見るかは、近代とは異なっていた。小学校が始まるような年齢になると、大人と同じように裁かれるような時代が長かったといえる。19世紀末から20世紀にかけて、成人年齢に達しない、つまり青年期まで含めて、犯罪者の処罰を大人よりも軽減し、更生を重視する考えかたが、アメリカで少年法として成立した。それが日本に取り入れられたわけである。ニューディール派のかなり理想主義的な少年法が、戦後改革によって導入されたので、非常に保護的なものだったわけだ。 “少年法年齢引き下げ見送りについて” の続きを読む
本日最終講義
今日は、大学での最後の活動である「最終講義」をやってきた。通常の授業の枠とは別に、特別の「最終講義」というのは、どういう習慣であるのかわからないが、多くの定年退職する大学教師は、これを行うようだ。私が強く意識している歴史的最終講義は、矢内原忠雄のものだ。矢内原は、軍部批判をした論文が非難されて、東大教授を辞任せざるをえなくなるわけだが、受け持っている講義が結局、途中で停止されることになる。その最後の講義が、「最終講義」と言われていて、多くのひとたちに語り継がれている。多くの慣習的な最終講義は、こうした普段の講義の最後ではなく、特別のテーマで行う。
数日前に書いたが、「大学の教育活動でめざしたこと」という題で行った。
いろいろあるが、大学の講義で目指したことは、とにかく、学生に勉強させることだった。 “本日最終講義” の続きを読む
「結婚しなくていい」ヤジ、野党の対応は稚拙ではないか?
1月22日の国会代表質問で、選択的夫婦別姓の導入を認めるべきだという質問に対して、「だったら結婚しなくていい」というヤジが飛んだとされる。それに対して、「結婚の自由を否定する憲法違反の言論だ」「謝罪せよ」など強い非難が出されており、ヤジの主をめぐっても、自民党と野党の攻防が続いている。杉田水脈議員だという声が多いが、本人は無言を貫いている。自民党の森山国対委員長は「不規則発言自体がよくないと思うので、そういうことがないように(党内に)しっかり伝達する」と述べ、個別の発言はたださない意向だということだ。不規則発言がよくないのなら、安倍首相にそのように諫言すべきであろうと思うが、この問題はいろいろと考えさせる。
まず最初に私の立場であるが、「選択的夫婦別姓」の導入に賛成である。ただし、結婚するときに、新しい姓をつくって、その姓になることも認めるべきだと思うので、100%「選択的夫婦別姓」がいいとは思っていない。ただし、新しい姓まで認めないなら、別姓もだめだなどとはまったく思っていないから、そのことには賛成である。
そのことを踏まえて、このヤジをどう思うか。もちろん、感心しないが、しかし、この発言が「憲法違反」だとは思わないし、そういう発言をすることに対して「謝罪」をしなければならないとも思わない。 “「結婚しなくていい」ヤジ、野党の対応は稚拙ではないか?” の続きを読む
満員電車にベビーカー 思いやりだけでは済まない
ものまねタレントの「みかん」のブログ発で、満員電車にベビーカーで乗ることの問題が話題になっている。私は、ものまねなどにはまったく興味がないので、みかんというタレントは知らなかったが、とりあえず彼女のブログや、紹介ブログ、そして、5チャンネルでのやりとりなどを見てみた。こうした話題は度々議論されるところだし、日本のラッシュアワーは、とにかく解決不可欠の問題なので、取り上げてみた。
まず、最初のみかんブログを読むと、他でも多数紹介されているが、普段は車での移動だが、その日は仕方なく電車で移動せざるをえなかったということだ。ベビーカーとキャリーバッグをひいて、朝の通勤客で混み合う電車に乗ったが、ある駅で下りた男性が、「邪魔なんだようっ!」と捨てぜりふをはかれて泣きそうになった。電車移動はしたくないと思ったというような内容だ。「乗っちゃいけないの?!」という題がつけられている。
大きく話題になったのは、その後、志らくがMCをしている「グッとラック!」で取り上げ、論争になったからのようだ。その番組自体を見ておらず、紹介記事で知っただけだが、だいたいの筋はわかった。志らくは、「男性こそ邪魔だ」というような発言をしたようだ。 “満員電車にベビーカー 思いやりだけでは済まない” の続きを読む
大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか
最後の授業を終わり、あとは、「最終講義」を残すのみとなった。今回は、「最終講義」で話す柱となる内容を考えるために書いてみる。考えながらなので、とりとめない書き方になる。
題名は「**大学の教育活動でめざしたこと」ということで、私は専門が教育学なので、教育活動自体が、専門の実践という側面をもっている。「最終講義」には定型はないのだろうが、多くは、自分がやってきた研究活動の総括などをする。私の狭義の専門領域はヨーロッパの学校制度だが、やはり、基本は「教育とは何か」にある。教育という行為には、必ず価値的な対象がある。そして、具体的な対象は、ある領域の知識であったり、あるいは技能・技術であったりする。しかし、単に専門領域の知識を与えることを意図して、教育活動をしている大学の教師はあまりいないはずである。やはり、知識を獲得するとともに、あるいは知識を獲得することによって、より、高いレベルの知的能力の獲得を目指しているはずである。私の「最終講義」は、その目指してきた知的能力とは何か、それをどのような方法で目指したのか、その結果はどうだったのかという点に焦点を当てて考えることを意図して行う。 “大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか” の続きを読む
入試の出題ミスの対応について
人間のやることには、必ずミスがありうる。入試問題の作成も例外ではない。センター試験などは、かなりの期間をかけて、何重にもチェックをしているようだが、それでも出題ミスがある。そうした場合、報道を見る限り、ほとんどの場合、その問題は全員に点を与えるという措置がとられるようだ。しかし、それは、正しい対応なのだろうか。もちろん、それ以外の対応は、ほとんど大きなクレームが寄せられるだろうから、クレームのない方法として、全員加点以外ないということは、私にもわかる。しかし、それでも納得できないものがある。
こういうことがあった。あまり知られていない試験だが、小学校教員免許の認定試験というのがある。小学校免許を取得するコースは、あまり大学に設置されていないので、とらずに卒業してしまったひとたちが、社会に出たあと、やはり小学校の教師になりたいという人のために、一発試験で、合格者に二種免許をあたえる試験である。
当時、私はこの試験を受験する学生と一緒に、勉強会をしていたのだが、ある学生が受験した科目に、出題ミスがあった。 “入試の出題ミスの対応について” の続きを読む
本日で大学の教育活動終了
思いもかけず、定年が一年延び、今年の3月で定年退職することになっているが、授業としては今日最後の授業をしてきた。最後は、「国際社会論」で、インターネットの国際社会に与えた影響について扱った。あまりにたくさん教えるべき内容があり、やはり時間が足りなくなってしまったが、学生諸君も日々活用しているツールだから、いろいろと考えてくれるだろう。
最後に、AIが職業をなくしていく、というよく言われることに対して、どう対応していけばいいのか、ということを強調して終わった。これは、教育研究者としては、とても大事なことで、いろいろな機会にいってきた。
AIが職業を半分くらいなくしてしまうということは、半分くらいの人々がその仕事を奪われるということだ。また、職業がなくならなくても、仕事の有り様がすっかり変わってしまうということも起きうる。そういうときには、新しい事態に対応できる能力や資質か不可欠となる。今後の教育としても、そうした新しいことへの対応力の育成がとても重要になるわけだ。しかし、そんな能力や資質はどうやって教育することが可能なのだろうか。
私の考えはこうだ。 “本日で大学の教育活動終了” の続きを読む
芸術に対する公的補助
「芸術に公金、広がる波紋=市劇場専属の舞踊団―首長交代で一時存続危機・新潟」という時事通信の記事がでている。(2020.1.19)公共劇場の専属舞踊団Noismへの補助金の打ち切りが検討されているというものだ。一端打ち切りの方向になったようだが、条件付きの活動の継続7が決まっている。それは当面のことで、今後はどうなるかわからない。
Noismは、2004年に公共劇場「りゅーとぴあ」の専属舞踊団とてり、13人のダンサーを抱え、生活費と練習場所が保障されている。前市長の意向だったようだが、市長が変わることで、状況が変わったということだ。日本ではよくあることで、私が所属している市民オケにおいても、まったく規模が違うが、市長交代で状況変化が起きるという経験をしている。
地域貢献をすることで、22年8月までの継続が決まったということだが、おそらく、継続はかなり難しいのではないだろうか。記事には、次のような説明が付されている。
「公共劇場の専属芸術集団は欧米では一般的だが、日本では「多大な予算が掛かる」と敬遠され、ほとんど例がない。
新潟国際情報大の越智敏夫教授(政治学)は「文化事業は価値を数字で測りにくく、予算削減の対象になりやすい。一回やめると復活は難しい」と話し、行政による文化・芸術活動の支援の難しさを訴えた。」
芸術活動に対する公的補助の問題は、愛知トリエンナーレでも大きな対立を生んだが、非常に難しい論点を多く含んでいる。
まず、欧米では、公共劇場に専属芸術集団が属しているのが一般的だと書かれているが、私はそうは思わない。 “芸術に対する公的補助” の続きを読む