学ぶ側の選択と主体性について前回考えた。では、教える側の教師にとってはどうなのか。教師は、学習者の意志、発達段階等によって拘束されるが、しかし、教師の職務を果たすためには、やはり、選択と主体性が保障されなければならない。教師も、当然学ばなければならないからである。
では日本の教師は、こうした点からみて、どのような状況におかれているのか。
私立学校は別として、公立学校は、勤務校を選ぶことができない。欧米は多くの場合、個別の学校の募集に応募して採用試験を受ける。もちろん合格しなければならないが、自分が働きたい学校を選択できる。日本では、県単位の採用試験を受けて、合格すれば教育委員会が配属を決める。つまり県単位の選択しかできない。基本的には移動に関しても同様である。
教師としての学びはどうか。
まず新任で最初にかかわる研修についてみよう。
法令で教育委員会が教師のための研修を提供しなければならないと規定されているが、その研修は、10年研修以外は、ほとんど教師の主体性は認められていない。10年研修は、テーマ等を教師自身が決めることができる場合が多いようだが、そもそも10年目にそうした研修を義務付けられていること自体が、完全な自由ではないことを示している。更に10年毎に免許の更新講習を受けて試験に合格することも義務付けられている。
若い教師たちに質問すると、初任者研修には、あまり満足していない。私たちの世代と違って、今の若者は行政が行うことに対して、ほとんど疑問をもたない。だから初任者研修を受けることや、その内容に疑問をもつことはあまりない。それにもかかわらず、結果には満足している者が少ないように感じるのである。
教師という職業は、他の労働者と際立って異なっている面がある。ほとんどの新規に採用された労働者は、少なくとも日本の場合、最初に数カ月の研修を受ける。そこで仕事の詳細を理解し、こなせるようになって、初めて実際の職場に配置される。しかし、教師は、採用試験に合格して、すぐに一人前の教師として、担任などを割り当てられ、ベテラン教師と同じ仕事をするようになる。二種免許で短大卒の場合、20歳で一人前なのである。より高度な専門職であると考えられている弁護士や医師ですら、国家試験に合格してすぐに働き始めるのではなく、一年以上の研修期間がある。教職の場合、学生の間に「教育実習」という実地の経験を積んで、そこが研修の役割を果たすわけだが、もちろん、それで十分だと考えられているわけではない。
この体制は基本的に今でも維持されているが、一年目は仮採用であり、初任者研修が制度化されている。教師として授業や行事の指導、委員会活動などをこなしながら、研修を受け、一年経過した時点で正式採用されることになっている。
初任者研修は、校内と校外に分かれるが、校内研修では、週10時間以上、年間300時間以上となっており、校外研修は、年間25日以上である。研修の内容として、校内は、教員に必要な素養等に関する指導・初任者の授業を観察しての指導・授業を初任者に見せて指導(講師はベテラン教員)、校外は、教育センター等での講義・演習・企業・福祉施設等での体験社会奉仕体験や自然体験に関わる研修・青少年教育施設等での宿泊研修となっている。
私の率直な考えを書けば、こうした研修は、何もしないよりはいいかも知れないが、より効果的な研修を模索することを阻害するという意味で、マイナスである。研修は教師としての学びであり、学ぶために必要なことは、何をどのように学ぶかを、主体的に決められることなのである。ところが、この初任者研修の実施方法は、ほとんどが上から決められ、与えられるものになっているのだ。
静岡県に岳陽中学という学校がある。かつて荒れた学校で成績も悪く、不登校が多かった学校であるが、校長がリーダーシップを発揮し、東大の佐藤学教授の指導で、徹底した授業改革を行い、数年で荒れがおさまり、いじめや不登校が激減したという実績をあげた。その授業改革のための全校的な取り組みは、非常に重要な要素をもっていた。
時々に決められた教師の授業を、他の空き時間の教師がビデオ撮りをする。普通の授業撮りの映像は、教室の後ろから、主に教師の動きを撮影するが、この場合は、複数の教師が前から生徒たちの表情を撮る。つまり、教師がどのように教えているかではなく、教師の教えを生徒たちがどう受け止めているかを、徹底的に記録していたのである。もちろん、教師の声は入っているから、どのような授業をしているかはわかる。
そうして撮影した授業を、放課後に全教師による研究集会で、自由な討論をしながら検討する。ここでは、ベテランも新人もまったく区別なく、遠慮なく語り合う。こういうことを数年繰り返すことで、教師の行う授業が改善され、生徒たちの理解が深まり、成績が向上していくにつれて、荒れもなくなっていったのである。
このやり方と、初任者研修の違いをみてみよう。
岳陽中学では、教師は全員が平等の立場で参加するが、初任者研修は、指導者や授業を見せるベテラン教師と、学ぶことの多い未熟な新任教師という関係が固定されている。そして、自由な討論をする岳陽中学に対して、初任者研修では、教え-学ぶ関係や学ぶ内容もほとんど決まっている。もちろん、初任者研修での指導が役にたつことが多いだろうし、また、校外で行われる偉い先生の講習も、あらたな知識を獲得する機会になるだろう。しかし、本当に実際に教えている教師にとって、必要な学びは、初任者研修で与えられるようなものではない。岳陽中学のやり方は、古くは、優れた教師育成の名人であった斉藤喜博のとった方法と同種である。佐藤学が重視した「生徒の表情を重視する」という考えは、斉藤喜博が繰り返し述べていたことだった。
岳陽中学の方式が優れているのは、研修が全校で日常的に行われていることである。初任者研修や10年研修は、特定の教師だけが対象になっている。また次に述べる研究指定校は、特定の教科と選ばれた教師だけが対象になっている。全員の教師の力量を上げることが重要であり、そのためには、全員を対象として、特別の期間だけではなく、日常的に研修が行われている必要がある。個々の研究会は担当者がいたとしても、一年に1度以上必ず回ってくる。そして、教科などの内容は、当人の意向が重視される。
次にあげるべきは、みなが平等な立場で自由に意見を述べあうことである。「研修」は「研究と修養」を短縮した言葉と言われるが、研究にとって、自由が絶対的に必要であることはいうまでもない。
初任者と10年目の教師以外は、教育委員会が主催する校外での研修(だいたいは講演会)か、あるいは研究指定校となることである。私自身、現場の教師から、このふたつに関して「役に立つ」という感想を聞いたことがない。私が子どものころ、こうした研修に教師が出かけていたという記憶はあまりない。しかし、私が子どもをもち、子どもから学校の様子を聞くようになると、頻繁に「**教研」という言葉が出てくるようになった。午後の授業がすべて無くなり、教師たちが一斉にどこかに出かけていくというのである。いろいろあるのだろうが、だいたいは大学の教師などがやってきて、講演会をするのが、「**教研」ということだ。実際に授業をしている教師たちが、お仕着せの講演を聞かされて、役に立つなどということは、稀にしかないはずである。はっきりいって、時間と費用の無駄遣いといえる。
しかし、研究推進校の研修よりは、まだましかも知れない。
研究推進校のシステムは、多くの場合、担当の教師たちには疲労感と若干の満足感、担当しない教師にとっては、無関心か外的に巻き込まれるやっかいな状況と感じられる。そして、校長にとっては、大きな「業績意識」がもたらされる。研究推進校は、指定されて予算がおりるわけだが、教師たちのなかから積極的な提案がなされて、校長が受とめて申請するというようなことは、まずないといってよいだろう。ほとんどは校長の業績をあげたいという意識から、教師たちを無視するか、あるいは説得して申請が行われる。
以上検討してきたことから見れば、教育委員会が整備しているような研修は、教師たちの選択や主体的関わりが欠けている。教科等内容が限定され、担当する教師も少数である。(ただし、道徳教育推進校などのように、学校全体が巻き込まれることもある。)担当者は、教育委員会の指導主事のかなりきつい指導を受けながら、研究授業を準備することになる。自由な研究とはかけ離れている。
このように考えてくると、初任者研修、10年研修、**教研、研究指定校のような研修は、廃止すべきである。その代わりに、各学校が日常的に、全員を対象とした研修を、年間計画のなかに組み込み、そこで各教師の希望をいれつつ、自由ななかでの研修を中心にしていく必要がある。そこに、学校の要請があれば、教育委員会の指導主事が、指導助言をすればよい。そのような研修なら、担当者ではなくても、充分に勉強になるものなのだ。
もうひとつ重要な研修課題がある。それは、外部の団体の行う研究活動に参加することである。教育公務員特例法は、授業などに支障がない限り保障すると規定している。しかし、自由な研究活動が行われている団体ほど、参加が規制される傾向がある。また、日常的に参加することが、学校の勤務の過重労働によって困難になっているので、夏休みに大会をすることに留まってしまう団体もある。少なくとも、週に1度くらいは、5時に帰宅して、外部の研究会に参加できるような労働のゆとりが必要である。こうした研修こそ、最も効果があるといえるからだ。