教育学を考える5 選択と学びの主体性

 前回は多様性の重要性を論じた。多様性があれば、次にそのなかから自分の意志で選択できることが大切になる。多様性を認められても、自分の意志で選ぶことができなければ、多様性の意味がない。現在の日本の高校は、極めて不十分であるが、教育は多様である。その多様性は偏差値ごとにある程度振り分けられた生徒が集まるために、偏差値にあわせて教育が行われることから生じているに過ぎないのであるが。形式的には受験という選択をするのだが、競争に敗れた者は選択できないから、歪んだ選択というべきだろう。多様性と選択は、こうした歪んだ形ではなく、選択意志が最大限保障されるものでなければならない。
 では選択とは、単に権利としての形式的な概念なのだろうか。それとも、教育的価値をもつ概念なのだろうか。もちろん、選択は権利であり、それが出発点であるが、教育的価値をもつ。つまり、自分で選択できる能力を獲得することは、現代社会において重要なことといえる。
 教育学では「学習」という言葉を、「主体的な意志によって学ぶ行為」と考える。心理学でいう「行動変容」ではない。「教育」は、学習を促す行為と考えてもよいほど、「学習」こそが重要な概念である。勝田守一の名著は『能力と発達と学習』という表題である。今、文献の跡づけはできないのだが、当初生涯教育と言われた言葉が、生涯学習になっていくには、藤岡貞彦や佐藤一子らの提起があった。行政的にも、社会教育→生涯教育→生涯学習と担当局の名称が変遷していく。生涯学んでいくことが大事であり、生涯の観点から見ると、教育は学習の援助と考えるのが合理的なのである。 
 では、人はどのようなときに最もよく、つまり意欲的に、効果的に学習するのだろうか。おそらく誰でも経験的に知っていることである。
1 自分が知りたいと思うことを学んでいるとき
2 自分が学んでいることと同じことを学んでいる人が、身近にいて、何らかの関係を結んでいるとき
3 学んでいることの結果が、自分にとって好ましい結果が生じると予想できるとき
 他にもあるだろう。このなかで最も重要なのは、もちろん1である。ところが、ここにこそ現在の教育の最も深刻な問題がある。現代の学校は、まず「義務教育」として始まる。最初から、「学びたいこと」「知りたいこと」ではなく、「学ばなければいけないこと」「知らねばいけないこと」を学ばせられる場、それが義務教育である。特に、日本の義務教育は、学びたい学校にはいることは想定されていない。最初から学校が指定されている。更に、どの学校に入っても、「学ばねばならないこと」は法令で決まっていると、文科省は指示している。これでは、最初から、学習意欲が湧かなくても、不自然ではない。人間は、何となくやらねばならないと思っても、頭ごなしに「これを勉強しなければだめなのだ」と強制されると、そのことによってやる気を減退させてしまうものだ。もちろん、義務であっても、しっかり学ぼうという気になることはある。それは、自分のやりたいこと、知りたいをことをする上で、必要な領域だと実感できたときである。指揮者になりたいと強く望んで、一生懸命音楽の勉強している人にとって、外国語は、オペラを指揮するために、また、外国のオーケストラを指揮するために不可欠であると、直ぐに理解できるから、外国語の勉強は音楽そのものではないし、また、かなり領域が違っても、必要性を認識して、やはり、一生懸命勉強するだろう。優れた指揮者は、ほとんどがマルチリンガルである。アスリートが、フォームのチェックや様々な場面での対応について、映像による検討が必要であると認識すれば、映像をPCで適切に分析したりする方法を修得しようとするだろう。
 しかし、自分の将来にもほとんど使うことはあるまいと思って、なおかつ面白みも感じないことを学ぶのは、苦痛だろうし、また学習の成果があがることもないに違いない。受験勉強でえた知識は、合格すると速やかに忘れてしまう。ほとんどの人が経験している事実である。
 義務教育制度への批判意識から、20世紀初頭には様々な新教育の学校が設立されたが、そこで生まれた新しい教育思想は、現在でも生き残っているものが少なくない。そのなかで、「義務性」を取り払ったのがイギリスにある「サマーヒル」である。サマーヒルは、学校としては時間割を設定して、授業を実施するが、それに出席するかどうかは生徒個人の判断に委ねられ、義務とはしなかった。また、学校のルールは、教職員と生徒が平等な資格をもつ全校会議で決定されることになっていた。20世紀の後半になると、イギリスでは学校への査察が制度化され、サマーヒルは、OFSTEDによる攻撃を受け、一時は存続が危ぶまれたが、現時点では、攻撃をはねのけたようである。政府の攻撃は、サマーヒルが、ナショナルカリキュラムが必修として課している科目を、義務にしていないという点にあった。まさしく、「義務的に教える」ことが論点だったのである。
 サマーヒルの影響を受けつつ、その精神をより徹底した学校が、アメリカのサドベリバレイ校である。サドベリバレイ校も、新しい潮流が社会に押し寄せた1960年代にアメリカで生まれたオルタナティブスクールのひとつである。サドベリバレイ校は、義務の廃止をより徹底させ、サマーヒルでは時間割とそれに対応した授業が実践されているのに対して、そのいずれも廃止した点が異なる。これまでにも何度か、このブログで書いたが、生徒は登校することだけが義務で、あとは何をしようと自分で決める。誰かに授業をしたけれど、授業をしてほしい人に依頼し、契約を結ぶ。内容、日時、授業を受ける場合の責任などを確認して、その契約に従って授業が行われる。サドベリバレイ校で教えている教師のインタビューによれば、本当にやる気がある生徒が、範囲を明確にして学ぶので、学習意欲が高く、非常に効率的な授業になる。
 サドベリバレイ校の教育理念のひとつに、独立した人格の形成、真の意味での責任感を育成することがある。創立者のグリンバーグ氏によれば、公立学校は、責任感を育てない。なぜならば、責任感を育てるためには、以下の条件が必要である。
1 自分で行うかどうかを決めることができる。
2 実際に自分でやりたいことを実行できる。
3 実行した結果に関して、自分で責任をとることができる。
 グリンバーグ氏は、公立学校は、このうちのひとつも許可していないという。するかしないかを、自分で決められないのは、義務教育学校に限らず、通常の学校でもいえる。できることは、基本的には学校の許可の下においてである。その結果、生徒たちの成績が悪かったり、何か間違ったことが行われても、生徒が責任をとることは通常ない。悪いことをしても、懲戒処分を受けることは稀であるし、生徒の成績が悪ければ、もちろん悪かった生徒は、その後不利な状況になるが、結果への責任は教師の教え方の問題として意識されることが多い。そして、多くの場合、学校や教師がカバーしようとするだろう。
 しかし、サドベリバレイ校では、勉強をせずに遊んでいることが可能だが、その結果、数学や言葉の力がつかなくても、そのまま放置されてしまう。みんなで決めたルールに反することをすれば、司法委員会や全体会議で罰せられる。そして、こういう仕組みであることは、充分に理解されているから、そういう環境で生活しているからこそ、責任の感覚が身につくのだとされている。では、無責任な教育ではないか、という疑念ももちろん生じるのだが、しかし、多くの人が感じる「不安」(自分勝手な人間になるのではないか、必要なことを学ばないのではないか、忍耐力がつかないのではないか等々)の内容こそ、サドベリバレイ校で最もよく学べる内容だと考えられるのである。
 人は、どういうときに学ぶのか、再度考えてみよう。
 サドベリバレイ校に入学すると、まずみんながやりたいことをやっている。自分がやりたいことが、思う存分にできるのだから、自然楽しい雰囲気に満ちてくる。楽しそうにやっていれば、新しくそこに参加した子どもは、自分もやりたいと思うだろう。そして、一緒に参加させてもらう子どももいるし、面白そうなことを自分でやる子どももいるだろう。予想と違ったら、他のことをやればよい。気にいったら、とことんできる。そして、そのなかには、もちろん楽しそうに勉強している人たちもたくさんいる。サドベリバレイ校は4歳から18歳までを対象としており、年齢の高い生徒たちは、当然高度なことをやっている。そういう環境で遊び、学んでいれば、自分が本当にやりたいことが、わかってくるし、またそれを社会にでても続けいくためには、何が必要かもわかってくる。わかって来れば、好きではないが必要なこととして、しっかりと取り組む動機になる。だから、必要なことなのに学ばないという生徒はいないと、グリンバーグ氏は断言する。ただ、学び始めるのが早いか遅いかだけの違いだと。
 また、好きなことばかりしているなら、忍耐力がつかないではないかという疑問もある。しかし、忍耐力をつける一番の方法は、好きなことを徹底的にやってみることなのだ。忍耐力は壁を乗り越える力だが、好きなことだからこそ、乗り越えようと努力する。嫌いなことでつきあたった壁を、努力して乗り越えようとする人は、極めて稀なはずである。卒業生が、インタビューで、サドベリバレイ校で学んだことは、困難な乗り越える自信だと語っていたのが印象的であった。
 サドベリバレイ校は、選択と学びの主体性という学習原則が、最も徹底した学校であるといえる。学校そのものを「選択」して入学するわけであるし、入れば、自分がやることは、全部自分が決める、つまり選択する必要がある。当然やりたいことをするのだから、主体的であり、積極的である。サドベリバレイ校の卒業生は、みんなが、自分のやりたいことを実現しようと社会に出て行くと、グリンバーグ氏は書いている。
 サドベリバレイ校の教育方式を、通常の学校に導入することは不可能だろう。しかし、何故、そのような教育をしているのかを考えれば、学ぶことはたくさんある。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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