教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに

 社会が発展すれば、様々な領域で多様性が展開する。戦後、日本人の人気スポーツは相撲と野球だったが、今や「国民的スポーツ」などというものが想定できないほどに、様々なスポーツが人気を誇っている。音楽も「歌謡曲」などと呼ばれたジャンルは、今や多くのジャンルに分化している。アルコール類も日本酒(それもほぼ一升瓶だった)とビールくらいだったが、今やワイン、ウィスキー、カクテル、サワー等々様々なアルコール類がスーパーマーケットに並んでいる。同じ種類でも、入れ物も多様な好みにあわせている。
 そうした発展のなかで、教育に対する志向が多様でないはずがない。私自身は、結論的には単純素朴に、多様な教育を最大限可能にするのが「教育の自由」であり、それは積極的な意味があると考えている。しかし、残念ながら、そう考える人は、決して多くないし、専門家ほど制限的な発想をするように思われる。
 前回紹介した、多様な教育の側面について、これは国全体として、すべてに関して、こちらをとるべきで、ちがうものは教育からは排除すべきである、などと自信をもっていえる人がいるだろうか。もちろん、これはさすがにおかしい、公教育からは原則的に排除すべきであるというものもあるかも知れない。旧字体の漢字教育、あるいは、理科の授業としての「創造説」、「神話時代から続く皇室」などは、そう考える人も多いだろう。では、江戸時代は鎖国していた、いや鎖国していない、などはどうか。
 さらに、多様性は、教育スタイル全体に及ぶ。
 世界の学校のなかには、ユニークな教育スタイルをとっている学校がたくさんある。前に紹介したサマーヒルやサドベリバレイ校などだけではなく、モンテッソーリ、イェーナプラン、ドルトンプラン、シュタイナー、フレネなど。これらは、部分的に取り入れることは、その教育理念を殺してしまうほど、体系性をもっており、しかもかなり違う理念や方法をもっている。まだまだ他にもあるだろう。
 もちろん、伝統的な教育も含めて、様々な学校があり、様々な教え方が認められて、教育を受ける側は、それを自由に選択できることを保障するのが、「教育の自由」である。私は、その意味での「教育の自由」論者であるが、私の見る限り、そのような意味での「教育の自由」論者は、日本には、あまりいない。なぜなのか、日本の教育学者は、このことをどのように考えてきたのか。それを検討する。日本の教育学者で、最も代表的な「教育の自由」の主張者は、堀尾輝久氏であるが、もう少し先まで進んだのが牧柾名氏である。従って、ここでは、牧柾名氏の論理を検討してみる。牧柾名『国民の教育権』青木書店1977である。このなかに、「『教育の自由』の理論的課題」という章がある。
 1970年代は、家永教科書訴訟にいくつか判決がでて、「国家の教育権」か「国民の教育権」かという議論が非常に活発に行われていた時期である。家永氏が明確に勝訴した杉本判決が出たのが1970年であり、「国民の教育権論」はまだまだ力があった。
 戦前は、教育は国民の三大義務のひとつであり、国家が教育内容を決め、それに教師は従って教え込むことは、当然とされていた。戦後になってもかなりの間続いた「特別権力関係論」が、教育制度の基礎になっていた。しかし、戦後改革後に逆コースがあったにせよ、教科書訴訟に関わるなかで、文部省も戦前的な論理からは脱皮していた。「政府は国民の選挙によって選ばれた国会議員によって構成されているのだから、国民の意思を体現しているのであり、また、公教育は、親が私事としての教育を国家に委託したのである」という論理に転換していたのである。それに対して、「国民が公共制度に付託したので、国民の教育の自由は公教育制度によって制約される。だから、親の教育の自由を根拠に国家の教育内容への関与を制限するのは、論理的に誤っている。」(p71)という論理を、牧は批判していくことになる。
 まず「教育の自由」の検討課題として、牧は以下の点をあげている。
1 子どもの生存権的基本権としての教育を受ける権利は、国民の自由権的「教育の自由」を否定するものか
2 現実の公教育は、社会の共同的利益の実現として、教育を受ける権利を保障することを本質的性格としているか
3 教育の自由を教育の私事性と同義の概念としてとらえることで充分か
4 精神的自由の後見的配慮としての教育的配慮論は、国家が教育内容に関与する正当な根拠となるか
5 国民の教育付託は、教師の教育の自由を制約する根拠たりうるとしても、それは国家による干渉を根拠づけるか
 こうした論点で理解できることは、国家が教育内容を定めて、それに基づいて教科書を検定し、その教科書によって教師が教えるというシステムが、学習権を保障するものではなく、国民が教育を付託したからといって、国家が教育に干渉することを容認するものではないと、牧が結論を導いていることである。
 日本では、「教育の自由」という感覚が、歴史的に存在しない。明治以降、ヨーロッパから輸入された概念としても、戦前は大きな流れにはならなかった。そして、戦後、教育が国民の権利になってから、重視されるようになってきたが、それは、ヨーロッパにおける伝統的な「教育の自由」概念に近く、「私立学校設置の自由」と「親の教育選択権」であると理解されていた。牧は19世紀的「教育の自由」(フランス1848年憲法)を一歩すすめたデュギーの概念を検討する。デュギーは、「教育の自由は、国家が学説をもたないことを根幹とする学習と教育の自由」であるとするが(p74)、さらに、牧は「学習の自由を中心として、両親の教育選択権、私立学校設置の自由、教師の教育の自由をふくむ精神的自由としてとらえられる」と発展させている。ここで、「教師の教育の自由」を積極的に位置づけるわけである。
 このあと、牧は、マルクスなどによりながら、「自由」を階級的な観点から検討するが、それはここでは省略する。
 「学習の自由」を実現するためには、伝統的な「教育の自由」の修正が必要であると主張するのであるが、その修正内容は、必ずしも明確ではない。おそらく、「教育の自由」を「学習の自由」として再構成することをさしているものと思われる。そして、「教育の自由」を実現するためには、国家からの干渉を否定するだけでは不十分で、人民が教育を創造する自由を実現するための「条件整備」が必要であるとして、そこに教育行政の役割を求めていく。当時の教育基本法10条の内外区別論を検討することになるが、それも省略する。
 こうした教育を創造するという営みは、日本の民間教育研究団体が実践してきたことであり、実績があるとする。そして、自由を擁護することは、アナーキズムや主観主義を主張することとはちがうとして、「教育の自由」を以下のようにまとめている。
(1)教育を特定の階級の独占から解放し、万人に開かれたものとすること
(2)学ぶ者の自由を基礎においている
(3)教師の研究・教授の自由、個々の教師のそれと同時に、教育労働集団としての自律
(4)親の教育選択の自由
(5)国民が、学校を一定の条件のもとで設置する自由
(6)教育内容作成に国民が参加することなど、新たに教育を行どうして創造していく国民の自由(p107) 
 以上みたことで、「国民の教育権」論が、なぜ「教育の自由」概念を喪失していったかがわかる。国家が、学説をもって、それを国民に押しつける(=国家の教育の自由、あるいは、国家による国民の教育の自由の制限)ことを批判し、国民、特に教師が「教育の自由」をもつことが根幹となっている。もちろん、それは正しい。牧理論、あるいは「国民の教育権論」の限界は、そこが到達点として想定したことにある。実は、そこは「教育の自由」を本当に具体的に実現するためには、「出発点」に過ぎない。それは、これまで検討してきたように、国民の側に、本当に実現可能な学校設立の自由と、親による教育選択の自由が保障されるならば、オランダのように、公立学校よりも私立学校が多くなり(オランダの基礎学校は、私立が7割であり、公立学校も特別な教育理念で設立されていることが少なくない。)、伝統的な「教育の自由」である「私立学校設立の自由」と「親の選択」の自由が想定している「ほとんどが公立学校で、わずかな私立学校があり、わずかな私立学校を選択することが、親の教育選択の自由」の内容であるという「範囲」を越えてしまうのである。
 また、教師の「教育の自由」が実現すれば、様々な教え方、あるいは教材として採用する内容の多様性、そして、相反する内容が学校によって採用される等々の事態が起きる。そうした問題をどのように扱うのかという原則が、「教育の自由」には不可欠なのである。
 以前指摘したように、「国民の教育権論」としての「教育の自由」論者は、臨教審の「教育の自由化論」が出てきたときに、「自由化」論の反対にまわり、そして、徐々に「教育の自由」の概念そのものをあまり主張しなくなってしまった。それは、「教師の教育の自由」が、国家から解放されて実現すれば、何か予定調和的に、国民にとって好ましい状態が実現するという前提にたっていたからではないだろうか。
 しかし、社会思想的にみれば、自由と平等は矛盾対立する場合が多く、自由は、競争に転化して、弱者が敗れ、社会的不平等を増大させることは、歴史が示すところである。「教育の自由」にしても、それによって生じる事態を想定し、それをどう克服するかまで考察していなければ、目指していたもの自体が崩壊してしまう。「教育の自由化」など実施したら、とんでもないことになる、と「国民の教育権論」者たちは考えて、反対したわけである。「教育の自由化」と「教育の自由」とは、どうちがうのか。その究明こそが不可欠だったのである。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です