文科省が、オンライン授業の割合が50%以上の大学の名前を公表するという方針だそうだ。ずいぶんとおせっかいなことだ。そもそもコロナ禍で、オンライン授業を勧めたのは、文科省ではないか。それを今度は、体面授業を重視しろというのは、なんともはや、いいかげんな行政だ。オンライン授業と体面授業と明確に区別しない、つまり、両方やっている授業だってけっこうあるのだ。少人数の演習などは、オンラインでもまったく問題なく機能するだろう。通常の体面授業を、カメラをおいてオンラインで流し、大学に来られない学生は、どこかでそのオンライン授業を聴講するという方法もある。就職活動などをしている学生にとっては、ありがたい方法だ。ある大学の教員に聞いたところ、どちらも可としたら、オンラインを希望した学生が圧倒的に多かったというのだ。また、学生にしても、4年生になって、あまり授業をとっていないのなら、定期券を買わずに済む。バイトやりながら、授業のときだけ抜け出すという手段もある。欠席するよりは、ずっといいわけだ。そして、無駄を省くことができる。つまり、オンライン授業は、学生が求めている側面もあるのだ。もちろん、対面授業を求める学生もいる。選択肢が増えることがいいのだ。
教員採用と行政区域
大阪都構想が否決されたが、ここで二重行政が問題となった。いろいろな分野でそうした重なりがあるのだろうが、私の専門領域で考えてみることにした。それは、教員採用と教員の移動である。通常の都道府県では、公立小学校と中学校は、市町村立であるが、教師の採用と人事に関しては、県が行うことになっている。そして、給与もかつては半分が県、半分が国という分担だったが、現在は県が3分の2、国が3分の1を補助するように変化している。これは、知事たちの要求で、都道府県の裁量部分を増やすという目的で変更されたが、同時に、それまで全国一律の給与表だったが、都道府県で変えられるようになった。いずれにせよ、都道府県が公立小中学校教師の給与を負担し、国が補助をする。そして、そのシステムと表裏のものとして、教員の採用とその後の人事も、都道府県が行うことになっている。
ところが、政令指定都市は、この権限を市として行うことか認められている。市が給与を負担して、採用や人事も市で行うわけである。大阪もそうだし、埼玉県も同様だ。しかし、横浜や千葉は独自の採用試験を行っておらず、県の採用試験に任せている。大阪は、私の指導する学生が就職したことがなく、また、遠くて詳細がわからないので、とりあえず、埼玉、東京、千葉で考えたい。
大阪都構想 特別区のほうが問題だ
大阪都構想が住民投票で否決された。私はずっと関東に住んでいて、ほとんど大阪には関係がないので、ずっと実感がわかなかったのだが、さすがに実際に住民投票が行われ、結果が出たことで、自分なりの意見をもつ必要を感じた。しかし、この住民投票は、いかにも不可思議な現象だ。まず公明党は国政では自民党と組んだ与党なのに、大阪では自民党と対立し、維新の会と組んだ。しかし、大阪では維新の会が与党だということだ。つまり、公明党とは、権力のほうばかり向いた政党になってしまったということなのか。しかし、山口代表が乗り込んで、盛んに賛成演説をしていったのに、あの無類の組織政党であるはずの公明党支持者の半分は、反対したという。また、最も強力な反対政党が、自民党と共産党だというのも、極めて珍しい現象だ。
この間、当然テレビでも盛んに解説していたが、いまいちわからないことが多い。大阪に住んでいれば、生の資料を入手できるから、具体的な争点かわかるのだろうが、メディアでの報道で知る限りは、行政の二重性をなくせるので、いいのだというが、それがどのような二重性で、どのように解消されるのか、丁寧に解説してくれるメディアがあまりないので、表面的なことしかわからないのだ。
教育学を考える20 主体性・主体的の考察
最近、ある場で「主体的・主体性」の教育における意味に関する議論をした。少し整理してみたいので、ここで考察することにした。
「主体的・対話的」な教育が必要であると、近年文科省などが強調している。戦後の文科省の歩みをずっとみている人間にとっては、文科省がいうことには、とりあえずフィルターをかけて、注意しなければならないという意識がある。特に、21世紀にはいって、「ゆとり教育」をやめ、学力推進的な方向をとったあとは、実際に、主張していることと、その結果にかなりの矛盾、ちぐはぐさが生じている。「いじめ防止対策推進法」が制定されてから、逆に、いじめによる自殺などが多数起きている。学力推進策に転換したにもかかわらず、必ずしも、PISAなどでも以前の好成績をキープしているわけではない。文部省が文部科学省になって、大学政策を熱心にやりだしたが、日本の大学の国際ランクはさがり続けている。
つまり、実際には、「いいことをいっているような感じだが、その結果は逆だ」というような事態が少なくないのである。そういうなかで、文科省が推進しようとしている「主体的・対話的」授業に対する疑問が生じるのも、当然というべきだろう。そういうときに、こうしたあいまいな概念は、教育学として不要であるという意見が提示されて、議論になったわけである。
オンライン診療とかかりつけ医
田村厚労相が、新型コロナウィルス流行期で特例的に認められている初診からのオンライン診療について、「かかりつけ医」を対象に恒久化する方針を示したと報道されている。これは、10月8日に、菅首相の意を受けて、オンライン診療を安全性と信頼性をベースに初診も含め原則解禁するという方針を、田村厚労相、河野規制改革担当相、平井デジタル改革担当相が合意していたことを、実現する方向で着手したということだろう。
しかし、この記事を読んで、正確に理解できる人は、あまりいないのではないか。私自身も、よくわからないところが多い。それは、「かかりつけ医」に関することだ。そもそも「かかりつけ医」とは何か。コロナ禍で、一般的な病気でも、医者にいくのが不安だということで、オンライン診療が求められたとき、厚労相はそれを推進しようとしたが、医師会が「かかりつけ医」に限定すべきであると主張したことが背景にあると思われる。
ところが、肝心の「かかりつけ医」と意味があいまいなのである。日本医師会の示しているふたつの定義をみてみよう。
「かかりつけ医」とは何かについて医師会はふたつの定義を示している。
学術会議は抵抗しないのか
国会の論議が始まり、当然であるが、学術会議の任命拒否が野党によって質問された。しかし、菅首相の答弁は、予想されたもので、問題の本質を逸らしたものだった。
学術会議に批判的であるひとたちからも、ほぼ共通して疑問としてだされているのは、拒否した理由はいうべきだということだ。安倍元首相もそうだったが、「人事のことだから、詳細はいえない」というのは、勝手な理屈だし、現代の社会的認識では妥当ではない。確かに、以前は人事は上が決めて、その理由などは、いわなかったのかも知れない。しかし、いまでは、たとえば、入学試験の合否でも、不合格になった人は、合否の元になった判定を知ることができる。教員採用試験でも同様だ。
教員の評定についても、本人の自己評価が予め提出され、重要なことがあれば、結果の理由が示されるのが普通であると聞いている。民間企業などでは、いろいろあるだろうが、学術会議のような人選については、通常のルートで選ばれたのに、任命権者がそれを拒否した場合には、理由を示すのが当たり前のことである。しかも、学術会議は、独立機関であり、会員は、内閣総理大臣の部下ではないのだ。
理由を言わないのは、いえないからであるというのは、明確だろう。つまり、政治的な批判者だから、拒否したから、理由がいえないわけである。
コロナ禍は第一波?
JBpress 2020.10.29に、久しぶりに伊東乾氏が登場し「米大統領選後に訪れるコロナ大恐慌に備えよ」という文章を掲載している。この間、コロナ関連の情報処理の仕事をしていたとかで、今後、蓄積したことをどんどん書いてくれるのではないだろうか。
さて、この文章を読んで驚いたのは、個々の国、地域の感染者数の増減と、世界全体の合計の増減とは、まったく違う様相を示しているという点だ。日本やヨーロッパなどは、明らかに、春先にピークがあり、ロックダウンや自粛などで、ある程度新型コロナウィルスの感染を押さえ込んだ時期があるが、9月10月から再度増加し始めている。だから、そういう波で世界が動いているという感覚を、私ももっていたのだが、確かに、世界全体の動向としては、異なるのだ。https://www.worldometers.info/coronavirus/
メロディーを考える
読者レビューなどを読んでいると、時々思いがけない書き込みに出会う。CD評では、「ベートーヴェンの運命は名曲と思わない」というのが、一番の驚きだったが、それに近いものに、チャイコフスキーの三大バレー全曲集のレビューで、「チャイコフスキーこそ、史上最高のメロディーメーカーであることがわかる」と書かれているのにびっくりしたことがある。好き好きは各自の自由だが、評価となると、やはり、そうはいかない。
考えてみると、メロディーというのは、かなりやっかいだ。メロディーは、音楽にとってあまりに当たり前の存在だが、メロディーとそうでない単なるモチーフとか、フレーズというのは、何が違うのだろうか。あるいは、メロディーのない音楽はあるのか。
都民ファーストが罰則付きコロナ対策を発表 効果は疑問
産経新聞2020.10.27に「ルール違反の感染拡大には過料!都民ファの新型コロナ都条例案が波紋」という記事が出ている。都民ファーストの会が、療養中の感染者が外出して感染を拡大させた場合などに金銭的な罰則を科す都条例案を都議会に提出する準備をしているという内容だ。罰則の対象とするのは
・陽性者が就業制限・外出自粛に従わず一定人数以上に感染させた場合
・事業者が特別措置法に基づく休業要請・時短要請に従わず業界の感染対策ガイドラインを守らずに一定人数以上に感染させた場合
・感染がうたがわれる人に対する検査命令を創設し、正当な理由なく命令を拒否した場合
ということだ。都は、10月に、「外出しないことを求めることを可能にする」条例を可決したが、罰則がないので、罰則を盛り込んで実効性をもたせたいという意向だとされている。
他党の反応といえば、どうやらほとんどが反対のようだ。 “都民ファーストが罰則付きコロナ対策を発表 効果は疑問” の続きを読む
利権に絡められるアスリート 瀬戸問題
産経新聞2020.10.26に、「瀬戸大也、ささやかれていた派手な私生活「彼一人の問題じゃない」指導者に反省も」という記事が出ている。社会的に非難され、今年の活動停止に追い込まれているわけだが、この記事は、オリンピック出場資格の停止にしなかったことと、最近の指導者と選手の関係の変化について書かれている。多少誤解があるのではないかという点もあるのと、来年のオリンピックは中止がほぼ決まったようだが、2032年に立候補するのではないかという観測も流れているので、その点について書くことにする。
記事で気になる点というのは、競泳では、一人だけ瀬戸がオリンピック出場が決定しているわけだが、その剥奪も含めての処分案が検討されたのに対して、「違法行為をしたわけではない」という弁護士のアドバイスで、その処分はしないことになったと書かれている。顧問弁護士の見解は「法に触れているわけではなく、代表権を剥奪するには理由が希薄すぎる。もし代表権を剥奪して、瀬戸選手に訴えられたら勝てないだろう」と後ろ向きだったということだ。こういう顧問弁護士というのは、私の知る限りは、問題を起こさないように、提訴されないようにと、ほとんど消極的な見解を出すのが特徴だ。しかも、この場合間違った法的解釈も述べている。