金沢嘉市氏は、民間教育運動では著名な校長だった。しかし、何か有力な教育方法などを提起している人ではなかったので、私はほとんど関心をもたず、実際に接することもなかった。私は東京の世田谷で育ったのだが、金沢氏は、私が小学生だった時期に、世田谷で教頭や校長をしていた。氏の本を読んでみようと思ったのは、彼を批判する本を読んだからだ。細川隆元『戦後日本をだめにした学者・文化人』という本だ。よくある左翼系の学者だけを非難する本ではなく、左右のひとたちをかなり広く批判しているが、そのなかに金沢嘉市が含まれている。もちろん、私自身、この細川氏の本に共感しているわけではまったくないが、金沢氏を読んでみようと思ったきっかけになった。
細川氏の批判は簡単にいうと次のようになる。
・戦前は軍国主義教育をしており、戦後民主主義に変節しているが、きちんと考えたわけではない。
・自分がいかに評価されているか、とくとくと書いているが、そういうことは胸にしまっておくべきこと。
・雑誌やラジオで解説しているが、浅い受け売りである。
以上のようなことだ。私が気になったのは、戦前から戦後への変遷の部分だ。軍国主義教育をしていたのに、戦後民主主義社会になると、とたんに昔から民主主義者だったように振る舞う人が多かったとは、よく言われることであり、それが、教師に対する不信感となっていたとも言われる。しかし、ことはそう単純ではない。
そこで、『ある小学校長の回想』(岩波新書)を読んでみた。1967年の発売だ。69年に定年退職なので、まだ現役の校長時代に執筆されている。
金沢氏は、愛知県の農家の長男として生まれて、農家を継ぐことを期待されたが、どうしても教師になりたいので、強引に東京の青山師範学校二部に入り、反対する父親を説得したという。そこまでして教師になりたかったのは、自分が小学校氏時代、やんちゃな子どもで、しょっちゅう教師に叱られ、殴られていたので、あんな教師ではなく、子どもを認める教師になりたいと思ったからだという。私の経験上では、教師志願者は、多くがいい先生にめぐり合って、あんな先生になりたいと思ったことがきっかけだから、金沢氏は珍しいタイプだったし、本当にそれが、親の反対にあってもなお教師になりたかった理由だとしたら、子どもながらにきちんと考えることができる人だったのだろう。
1928年に師範学校を卒業して、東京の多摩地区の教師になる。当時は、3年間は都下の教師になって、それから都心の小学校に転勤するパターンが多かったという。農村地域はまずしく、ほとんど本を読む子どもなどはいないので、読み聞かせをすることで、大きな成果をあげたと書かれている。残ってほしいという強い要望があったが、都市部での教師を望んでいたので、1931年に巣鴨の小学校に移る。そこでは、中学受験が盛んで、毎日補習を長時間行って、8割は第一志望に合格させ、大いに気を吐いたが、実は、高等小学校に進む子どもたちの手続きを、忘れてしていなかったことが発覚した。担任クラスの高等小学校進学の子どもたちは、進学先がなくなってしまうという緊急事態だ。抗議に訪れた親と子どもたちに強く叱責されてしまう。そこで、近隣の高等小学校で、手続きをしたが、中学や高等女学校に合格して、辞退した人の分に押し込んでもらうべく奔走した結果、無事に進学先を確保したという。
その反省から、今後受験用の補習は一切しないという姿勢を貫き、その代わり、充実した授業をすることに専念したというのだ。結果、受験の成績も落ちなかったという。
童話の読み聞かせから、演劇教育などに関心をもって、研究会なども参加することは、ずっと継続していたというが、「1教師となる」「2敗戦と教育」までの部分では、軍国主義的な姿勢だったことは、ほとんど触れられていない。当初は、生涯平教師という信念で、子どもたちを直接教育することに情熱を傾けていたが、先輩の校長に、説得されて管理職につくことを決意する。
世田谷の小学校の教頭に就任して、学校にいったとき、偶然に、かつての教え子の母親に出会う。その母親の娘の子どもが、偶然金沢氏の赴任校に在籍していたのだ。そして、その教え子は、徴兵されるときに、海外か国内かを選択できる状況だったのだろうか、金沢氏に相談をしにきたというのだ。どちらにしようか迷っている。それに対して、金沢氏は、迷わず、海外の戦地に赴いて、国のために戦ってきなさいと述べた。それに従って彼は戦地にいき、戦死してしまった。しかも、このとき、更に、その女性の子どもはもう一人男子が戦死しており、女の子が生き残って、いま小学生の孫は女ふたりだという。それに対して、金沢氏は、「男の子がほしいですね」というと、即座に「男の子はもうこりごりです」と返されたので、はっとしたが遅かったと書いている。
つまり、本人が国内に滞在しての仕事もありうるので、迷っていたところ、戦地に行け、と金沢先生は諭した。もちろん、この教え子に対してだけいったわけではないだろう。そのような姿勢を貫いていたに違いない。戦時中の部分には、こうした事例かまったく書かれていないが、やはり、かなりあったのではないだろうかと想像する。
校長になるまでの金沢先生の歩みを追っていくと、基本的に、体制に順応することと、あるところで踏みとどまった自分の信念を貫く二面性があると感じる。
さて考えたいのは、戦争の反省についてである。戦時中に生きていない者が、ある人を戦争に協力したとか、あるいは、軍国主義的な言論を行っていたといって、簡単に非難すべきではない。政府や軍部に反対していれば、それだけ危険な目にあう可能性があった。治安維持法で逮捕され、最悪死刑だったのである。そういうなかで、時局に協力することが強制され、少しでも反対することは許されなかった。従って、本心から軍国主義イデオロギーに染まっていた人と、仕方なく賛成する振りをしていた人は、明らかに異なるというべきである。多少とも、国策的なことを書くと、それは加担していたと評価する人がいないなわけではない。しかし、おそらく、そういう安易な批判をする人は、そうした社会で生きることの、本当の息苦しさ、危うさに、十分留意しないのだろう。
金沢氏は、軍国主義に染まっていた教師とは、思えなかった。教え子に戦場にいくようにいったのは、もし自分に召集礼状がきたら、そうするだろうという姿勢だったに違いない。召集令状がきたわけでもないひとたちに、積極的に応募せよ、と急き立てたわけでもない。つまり、体制順応的な対応だった。そして、積極的な平和主義でなかったことも確かだ。時局を合理的に考えて、あくまでも教え子たちが、無駄な死を迎えないように配慮する人でなかったことも確かである。
矢内原忠雄は、キリスト教の信徒が召集令状がきたことをどうすべきかを聞きにきたとき、「神は、君の望まないことをあなたにするように命じることはない」と、語ったそうだ。もちろん、招集を拒否せよ、と矢内原の立場でいうことは許されなかっただろう。ただし、敵と戦うように、言ったわけでもない。そこがぎりぎりのところだったのだろう。金沢は、多くの教師たちと同じように、国のために戦えと、おそらく単純に考えていたのだろう。戦時中のことを書いた部分からは、悩みは感じられない。しかし、他方で、文学教育や演劇教育で、子どもたちの文化欲求に答えようとする教師でもあった。
では、戦後の変化をどう受けとめたのだろうか。やはり不満なことに、あまりにスムーズに民主主義を受けいれている。しかも、十分に悩んだ末とは言い難い。友人の教師が、自分は戦争に行けと子どもたちをけしかけた以上、教師を続けることはできないと、北海道に帰っていった。しかし、金沢氏は、生活をしなければならないという理由で、教師を続けることにする。正直な人なのだろう。
教え子で、東大の理科にいる人が、戦時中にやってきたとき、戦争は負ける、科学や物量が違う、今勝っていても、必ず負けると語っていったことを記しており、戦後再びきたときには、更に「道義で負けた」と聞かされる。しかし、それに強烈なインパクトを受けたようでもないのだ。
では、完全に時流に流されていただけなのかというと、そうともいえない。朝鮮戦争が始まり、いわゆる逆コースが始まると、それには明確に抵抗している。そして、戦前とは異なる歴史教育などにも取り組むようになっていき、宗像誠也と一緒に社会科の教科書作成に取り組んでいく。つまり、はっきりと教師として成長していくのである。(続く)