読書ノート『ある小学校長の回想』金沢嘉市2

 金沢氏が、教育の世界で有名になったのは、校長としての活動によることが、続く部分で理解できる。
 最初の祖師谷小学校での実践で目立つのは、中学受験のための補習が行われていることを知って、それをやめるように指導したことだ。本書の記述では、校長としての権限行使として、かなり強権的に行われた印象を受ける。職員会議では、廃止すると宣言し、父母会を開催して説明する。もちろん、不満な親もいるわけだが、それについては、戦前の経験を話して、納得させる。すると、補習を望む親から、間接的に要望書が提出される事態になるが、頑として許さない。
 戦前の経験では、補習をした場合としなかった場合とで、合格率にほとんど差がなかったというが、今回の場合には、その実績は書かれていない。おそらく低下したのではないだろうか。差がなければ書くはずである。あるいは、そうした子どもたちは、一斉に塾に通いだしたのかも知れない。

 というのは、この部分を読んで、私はかなり違和感をもった。というのは、金沢氏が世田谷の祖師谷小学校校長になる時期に、私は、同じ世田谷で小学生だった。もちろん、受験する子どももけっこういて、私が卒業したクラスでは、3分の1が私立中学に進学した。かなり多いほうだったとは思う。しかし、小学校で受験のための補習などは全く行われていなかった。受験する子どもで、学校以外の勉強が必要と考えるひとたちは、もちろん塾にいっていた。ただ、塾の講師をしている教師はいて、噂にはなっていた。私立中学や国立中学の受験のための模擬試験なども普及していたし、塾もあった。私自身は、ごく普通に公立中学に進学するつもりだったから、塾にいったことはないが、試しに模擬試験を受けたことはある。そもそも、低学力に対する補習ならいざ知らず、受験のための補習を、放課後や朝にかなりの時間をつかって行うというのは、教師の過重労働になるわけだし、親の要求として、あまりに身勝手なものだろう。おそらく、ある時期の校長が親の要望を受けいれたか、あるいは、自分の名声のために始めたか、教師たちの反対を押し切って、実施させていたのではないだろうか。そして、実績があがったので、関係している教師たちの発言権が大きくなっていて、当然、親からの謝礼などが、影であったと考えたほうが自然だろう。
 金沢校長が強引に廃止して、少なからぬ教師たちから、感謝されたとある。金沢校長がおこなったことは、妥当というほかない。
 
 次に遭遇するのが勤評(勤務評定)である。勤評は、日教組が行った最大の闘争であった。そして、学校という組織に毒をもちこんだ最悪の政策でもあった。日本の教育史に詳しい人であれば、周知のことだか、勤務評定の導入は、完全に政治的目的だった。常識的には、教師の仕事を評価するのは、当然だと考えるだろう。仕事をしている以上、公正な評価が必要であることは、いうまでもない。しかし、1950年代に導入された勤評は、当初愛媛県から開始されたのだが、その目的は、財政的な困難に陥った県が、歳出削減のために、教師の給与を減らすことを考え、そこで勤評を導入して、3割程度の教師の昇給をとめることにした。その3割を選び出すために、勤評を活用したのである。そして、その3割はほとんどが組合活動家となった。最初から、明確な政治目的で導入されたのである。私は、学生時代、あるゼミで愛媛勤評闘争というテーマで報告をしたことがある。そのために、2カ月程度、大学の新聞研究所にある、当時の愛媛新聞の勤評関連記事をほとんど読んだ。
 公務員の勤務評定は、公務員法で規定されていることだから、原則的にいえば、実施する必要がある。しかし、教師の評価が難しいことは、少し考えれば納得できることだ。決められた授業を行ったとか、係をこなした、そういうレベルでの評価で、きちんと行った人は、みな○ということにするなら、現場でもすぐに受けいれられるだろう。しかし、多くの人は、仕事の成果を評価する必要があると考えるに違いない。しかし、その途端に、大きな困難が生じてくる。クラスの成績で評価するとしても、元々の子どもたちの能力に大きな差があるから、成績のよいクラスの教師の仕事がよかったとはいえない。クラス運営にしても、かなり主観的なものになってしまう。
 それを強引に、昇給させない教師を選抜するために導入したのだから、現場が反発するのは当然だった。愛媛での導入に続いて、全国化したのだが、教師の勤務評定をするのは校長だから、当然金沢校長もその課題を突きつけられることになった。個人としては勤評には納得しないが、校長という行政上の管理職として、上から命令されれば拒むことはできない。校長の多くが苦悩したわけだ。提出を拒んで懲戒免職になった校長も少なからずでた。結局金沢校長は、どうしても書きたくない部分については白紙にして、書ける部分のみ提出したと書かれている。
 
 勤評のあとは、安保改定での激動の様子が書かれている。もっとも、金沢校長は、積極的にデモなどに参加することはなく、(一度側を通りかかったら知人がいたので、思わず引き込まれたと書いている。)むしろ、安保をめぐる問題を、無視することなく、小学校で取り上げている。基本的には民主主義という観点からの問題を指摘しつつ、見解を押しつけるようなことはなく、生ぬるいという批判も受けたそうだ。
 そして、全国学力テストだ。
 全国学力テストは、1960年代の大きな騒動であり、不正と過度の競争か起きて、廃止に追い込まれる。そして、21世紀になって復活するまで、日本は学力調査が行われなかった。ところで、60年代と現在の学力テストは悉皆調査とされているが、制度的には、悉皆調査として行われているわけではない。それは60年代も現在も同様である。60年代は20%の学校に対して、抽出調査を要請し、残りの80%の学校は、希望を募るという形になっている。しかし、希望制であるにもかかわらず、必ず希望するようにという、行政指導が入るのである。金沢校長の学校では、希望制の80%のほうにはいったので、職員会議の討議にかけている。そして、本書を読んで、私も初めて、そういうことがあったのかという展開になる。多くの学校は希望するという姿勢を示したが、金沢校長は、教師たちとの議論を踏まえて、参加しないという決定をすることにした。ただ、念のため再度議論することにして、その議論の場に、地区の組合執行部がやってきて、参加してくれと要請がなされたというのである。それは、希望しないと処分が実施されるので、それを避けたいということだった。組合がそういう態度をとったのかと、私としては驚いた。ちなみに、私自身は、中学生のときに、全国学力テストを受けた記憶がある。混乱はまったくなかった。そういう組合の動きがあったのであれば、混乱がないことは理解しやすい。日教組は組織をあげて、全国学力テストに反対したのだと思っていたが、私自身の認識不足だった。
 日教組の内部でも県によって路線の違いがあったということだろうか。
 そして、このあとは、教科書の無償化によって、教師たちの教科書に対する関与が減退していくことが書かれ、そして、体育館の問題が書かれている。金沢校長の勤務していた三宿小学校に体育館を作ることが決まった。しかし、体育館をつくると、校庭が狭くなってしまう。そのために、下を校庭として使える「ゲタばき式」のものにしてほしいと要望をだすが、予算の関係で無理だということになり、その後、校庭、体育館、新校舎という複雑なからまりをどう解くかの模索を教育委員会と交渉をする。結局結論がでないまま、転勤することになってしまう。
 
 定年以前に書かれた本なので、校長としての最後の勤務までは書かれていない。細川氏の非難めいた文章を読んで、読んでみたが、多少手柄話が多いとは思ったが、細川氏の非難はあまりあたっていないと感じた。校長という存在は、子どもや教師、そして教育委員会の板挟みになることが多い。権力的管理者として振る舞えば、そうした板挟みは回避できるが、しかし、それでは教育者としては、失格である。金沢嘉市氏は、子どもの立場にたった校長として活動したことは、十分にわかる。戦時中のことは、時代と若さで許されることではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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