学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権


 あらゆる組織は、組織的な秩序を維持するために規則を設け、規則に違反したものを罰する。そうしないと、組織が維持できないからである。このことは、罰は組織の性質によって、その内容や与える方法が規定されることを意味する。国家という組織を維持するためには、法律で規定した「刑罰」を実行するが、それは国家社会の安全と秩序を乱す者を排除することが、当初のやり方であった。その後、追放や死刑という排除が難しくなると、刑務所に閉じ込めることで社会から排除するか、あるいは更生させることで危険性を排除する方法が付加されるようになった。刑罰の目的は国家・社会の安全と秩序の回復にあるから、排除と更生という手段がとられることになる。
 会社や役所のような仕事を行う組織では、排除は免職や停職、また重大な違反でなければ訓告や戒告などの懲戒処分がなされる。
 懲戒が規定されていることは学校も変わらない。では、学校ではどのような懲戒が行われるのか。学校は教師と生徒という全く異なる立場の人間が存在するので、それぞれの懲戒は異なる内容、異なる原則が適用される。教師は会社や役所と同じように、仕事を行っているので、懲戒の内容は免職・停職・訓告等で同じである。しかし、生徒は教育の対象であり、仕事をしているわけではないので、まったく異なった内容であるが、しかし、法的な規定としては、実はすべてが明確ではない。 “学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権” の続きを読む

学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討

 近年の働き方改革の「教育版」として、中教審が今年1月に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」という提言を公表した。2019.1.25
 多方面に関する検討をしたことがわかるが、しかし、私が見るかぎり、これで教師の過酷な労働、中教審も使っている「ブラック学校」が改善するとは到底思えなかった。尤も、問題に対する認識は示しているのであるが、結局、文科省の審議会であるという点での限界、明確に提言できない領域があるという感じがするというべきなのかも知れない。
 まず答申は、日本の教師は情熱と知識等の教育水準において、世界に抜き出たものがあると理解を示す一方で、現在の教師の労働の状況は「差し迫った状況にある」と改善の必要性を訴えている。特に、文科省と教育委員会は本気で取り組む必要があると主張する。これまで本気で取り組んでいなかったということなのだろうか。私はむしろ、教職の魅力を無くすように、文科省は執拗に追求してきたように思えてならない。 “学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討” の続きを読む

『教育』2019.7を読む 子どもが決める

 『教育』7月号は、教師と子どもの主体的に関わるシステムについて特集されている。今回は、山本敏郎「アソシエーション過程としての自治」を取り上げる。
 山本氏の主張をまとめると以下のようになるだろう。

 「現在の児童会・生徒会は、学校の管理-運営に対する「協力参加」であり、しかも、集団つくりにとって貴重な学級会活動は、1989年の学習指導要領から学級指導と統合され、学級活動になっており、学級の子ども組織は公式に存在しないことになっている。子ども自身にかかわることがらについては、子どもの権利条約などで認められているが。(意見表明権)
 組織は、主体的・能動的・意識的に結びつくアソシエーションと、他人によって結びつけられたコンバインドというふたつがあり、コンバインドとしての児童会・生徒会をアソシエーションに転換していく実践が望まれる。子どもの権利条約では、「子どもの見解が、その年齢及び成熟に従い、正当に重視される」としており、管理者と交渉する権利が認められるべきである。権力過程としての教師の主導権を、子どもに奪い取らせる過程として自治的集団づくりが実践されてきた。それこそアソシエーション過程である。特定の問題関心や共通の趣味などの有志の自発的な組織づくりをすすめてきた。問題解決のための当事者グループ、クラブ・サークル的なグループ、援助のためのボランティアグループ、社会的な問題に関心のある社会運動グループなどである。」 “『教育』2019.7を読む 子どもが決める” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳と入試2

 前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
 では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
 かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。 
 また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳評価と入試1

 教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。

 道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
 しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む

学校教育から何を削るか13 入学試験制度

 本シリーズ(学校教育から何を削るか)の最後にする予定で、以後、これまで書いたものを整理する予定。

 最後に最も大きく、かつ困難な課題を提起することにした。
 最初に確認しておきたいことは、日本の入学試験は、日本の学校教育に甚大な影響を及ぼしているし、進学ということがある以上、上級に進学するために「入学試験」があることは、当たり前のことであり、それは万国共通だと、多くの人が思っているが、それは間違いだという点である。上級学校に進学するために、何らかのハードルがあることは、ほとんどの場合当てはまるが、日本のような入学試験は、教育制度が発達した先進国では、実は少数派である。だから、入学試験システムは、廃止することができると考えている。
 私が学生時代、教育法の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、なんとしても廃止したいですね。」と主張したことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。 “学校教育から何を削るか13 入学試験制度” の続きを読む

教育実習の授業をみて 学校文化への疑問

 今、教職課程を履修している4年生は、多くが教育実習の期間中だろう。今週2人の実習の授業を見にいった。いろいろと考えたところがあるので、それを書いてみる。しかし、以下の文章は、今週見た実習生の授業に対する評価ではない。むしろ、普段から感じている日本の学校教育の「教え方」に対する疑問に関するものである。それが現われていたということだが、それは、ほとんど日本の学校教育文化ともいうべきものであり、その授業の欠点と認識されるものではない。授業そのものは、学生としてはとてもよかったと思うし、子どもたちもよく反応していた。
 まず「国語」。国語の授業では、決まったパターンがあるようなのだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
 実習の授業は、「段落分け」だった。そして、私が普段から最も疑問に思っていることが、この段落分けのやり方なのだ。 “教育実習の授業をみて 学校文化への疑問” の続きを読む

学校教育から何を削るか12 教師の階層性

 教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
 端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
 教育組織として見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。 “学校教育から何を削るか12 教師の階層性” の続きを読む

『教育』を読む2019.6 市場化する学校4

 前2回は、かなり批判的な検討になったが、今回は、ほぼ全面的に賛成である。取り上げるのは、
 錦光山雅子「家計を直撃する『学校指定物品』制服報道からみえた消費者問題」
 中村文夫「激化する格差の連像 家庭と地域の経済格差と教育」である。
学校指定の曖昧さ
 錦光山氏はジャーナリストで、制服等にかかる費用と、指定に関わる問題を明らかにしている。氏がこうした問題に関心が向くようになったのは、2014年9月24日に千葉県銚子市で起きた母親が中2の娘を殺害した事件であるという。母親の非正規労働、児童扶養手当、元夫からの養育費(遅れがち)でかろうじて生活をしていたが、中学入学に際して必要とされた費用を、ヤミ金融からの資金でしのいだが、取り立てで家計が崩壊し、公営住宅を強制退去させられる日、娘を殺害したという事件である。年収は100万円程度で、市も生活の困窮状況は把握していたようだが、生活保護の申請については、用紙をわたすのみで、説明などはあまりしなかったとされ、また、公営住宅の家賃については、減免措置があるのに、それを知らせなかったとされている。もし、減免されていたら、この悲劇は起きなかったし、また、それほど滞納していたわけでもないことがわかっている。 “『教育』を読む2019.6 市場化する学校4” の続きを読む

学校教育から何を削るか11 生徒会

 ここで生徒会を削るというのは、PTAと同じで、権限をもった組織に変えるという意味である。
 日本で児童会・生徒会は、学習指導要領によって規定された「教育組織」である。
 実際の規定は以下のようになっている。
〔児童会活動〕
1 目標
 児童会活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員としてよりよい学校生活づくりに参画し,協力して諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度を育てる。
2 内容
 学校の全児童をもって組織する児童会において,学校生活の充実と向上を図る活動を行うこと。
(1) 児童会の計画や運営
(2) 異年齢集団による交流
(3) 学校行事への協力 “学校教育から何を削るか11 生徒会” の続きを読む