前回は、学校での検証作業こそ大事であり、それを実行するための条件について書いた。今回は、親に関して書く。
天童市の事例に限らず、いじめによる大きな被害があったとき、「学校がもっと真剣に対応してくれれば、こんなことにはならなかった」と被害者の家族は述べる。天童市の事例でも、そのような発言がしばしば紹介されている。このように発言することは、間違いではないし、確かに、学校がもっと真剣に対応すれば、悲劇はもっと減るだろう。しかし、悲劇を避ける手段を、最も確実にとりうるのは、親なのである。このことは間違いない。
ハンナ・アレントの場合
20世紀後半の最も偉大な政治哲学者であるハンナ・アレントは、ユダヤ人であるために、学校で日常的な差別にあっていた。当時のユダヤ人差別は、今のいじめより、はるかに酷いものだった。そのとき、アレントの母親は、学校に適切な対応を求め、それが実質的にとられない限り、娘を学校に行かせないという対応をとった。そのために、学校は真剣な対応をとらざるをえなくなり、アレントは再び通学できるようになったのであるが、このときの母親のとった行動が、アレントが教育問題について考える基本になっている。「リトルロックについて考える」という短い文章のなかで、「子どもはまず何よりも家族と家庭に属する存在である」と書いている。リトルロック事件とは、1960年代までアメリカでは、黒人と白人の学校がはっきりと分かれていたのだが、ブラウン判決で、そうした分離教育は連邦憲法に違反するとされ、アーカンソー知事が白人の高校に黒人が入学できる措置をとったのである。しかし、その実現間近になって、知事は選挙民の反発を受けて、入学を許可された黒人が、実際に高校にいくことを、軍隊を動員して妨害したので、大統領のアイゼンハワーが連邦軍を派遣して、黒人たちの登校を守った事件である。このとき、ハンナ・アレントは、親が無理に子どもに対して、白人の学校に行かせるようにしたと解釈していて、子どもを政治の道具にするな、という趣旨の文章なのだが、実際には、入学を希望した黒人の高校生たちは、まったく自分たちの意思で入学を希望し、妨害にもかかわらず、卒業までこぎつけたのである。アレントは、あとで誤解していたことを訂正したのだが、この文章そのものはそのまま残した。つまり、論の構造は、変える必要がなかったからである。親は、適切に子どもを守るために行動しなければならないという論は、アレントの誤解が訂正されたあとも、当然有効だったからである。(ハンナ・アレント『責任と判断』筑摩書房)
さて、アレントを例に出した意味は、当然既に理解されていると思う。
子どもを守るのは親
子どもが、いじめを受け、学校が適切な対応をとれていないときには、子どもを励ますことは重要であるが、事態が深刻になっていると判断すれば、学校が適切な対応をとるまで、学校に行かせるわけにはいかないという対応をとれるのである。私自身が、親から相談を受けたら、そうするように助言するだろう。
いじめ問題は、もちろん、担当教師の適切な措置によって、加害者も反省し、加害者自身がかかえている問題も解決できて、いじめがなくなり、相互が真に共生協力できるようになるのが理想である。しかし、教師は生身の人間であり、かつ、誰もが知っている重労働を強いられている。適切な対応をとるといっても、被害者、加害者、傍観者、教員集団等々の多様な人間関係のなかで、理想的な実践をするなどは、通常の教師には、かなり困難なのである。いじめ問題を解決する最も有効な教育方法は、私は生活綴り方だと思っているが、綴り方実践をすることは、相当な負担があり、現在では、実践者は、極めて少なくなっている。もちろん、他にも有効な方法はあるだろうが、いずれにせよ、深刻な事態までいったときには、教師が対応できなくなることが、少なくないといえる。
そういうとき、絶対に避けなければいけないのは、自殺であり、心身に傷を残すような大きなけがをすることである。そして、それを避けるには、困難な実践ではなく、その場しのぎに過ぎないが、いくつかの方法がある。
学校ができることは、加害者を教室に来させないようにすること。つまり、出席停止である。これは、担当教師、校長に権限があるわけではなく、教育委員会の権限になる。しかし、いじめが酷く、加害者が特定されているときには、より柔軟に実施すべきだろう。教師が自らの手で解決できないときには、そうした方法も含めて、管理職に相談すべきである。また、現在は、法的に認められていないが、加害者を、別室で学習させ、被害者と接しないように措置をとるということもあってよい。ただし、天童市の事例のように、クラスや部活が、ほぼ全体としていじめにかかわっているような状況では、こうした措置はとりようがない。
そのようなときには、やはり、親が断固として、子どもを守る必要がある。アレントの母親がとったように、問題が解決されないうちは、子どもを学校に行かせないという措置である。もちろん、転校もそのひとつだ。
学校や教育委員会は、こうした親の措置がありうることを、もっと親に積極的に知らせる必要がある。いじめから守るための転校は、文科省が正式に認めている「転校」理由なのである。
子どもは、「教育を受ける権利」をもっている。そのために学校にいく。しかし、その教育は、自分を危うくする教育のことではない。学校が自分を危険に晒すものであれば、登校を拒否する権利があるというべきだ。親は、子どもを就学させる義務があるが、それももちろん、子どもを危険な場所に行かせる義務ではない。子どもを守る権利のほうが、当然優先されるのである。
子どもが学校にいかないとき、もし親が家にいられるならば、語り合う時間を充分にもてるし、一緒に勉強すればよい。フリースクールを探すことも可能だろう。教育委員会に相談して、適切な場所を紹介してもらってもいい。そういう相談をすれば、教育委員会から学校への指導も入るだろう。
いずれにせよ、親が絶対的に子どもを守ると決意すれば、いろいろと対応策はあるのだ。そのことを、もっと親は意識してほしいと思う。