昨年の12月に、「いじめ防止対策推進法」の改正案として、いじめの疑いを把握しながら放置した場合、その教師を懲戒処分にするという提案がなされ、多くの反対によって、とりあえず提案としては取り下げられた形になっているが、ふたたび、懲戒規定を設けるべきであるという動きがあると報道されている。この問題について、以前にも書いたが、新しい動きということで、再度検討したい。新たな動きといっても、論点そのものはそれほど変わっていないだろう。
懲戒処分の推進を主張しているひと達(「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」)が、高く評価する懲戒事例がある。
いじめを受けて大怪我をした中学一年の男子を病院に連れて行く教師に対して、顧問が「階段で転んだことにしろ」と隠蔽の指示をしたという。被害生徒自身がそれを聞いていたので、自分もそのように病院で述べ、全治1カ月との診断だった。ところが、副顧問が、学校側に「いじめによるけがだった。教諭から虚偽の説明を指示された」と報告したために、顧問の指示はすぐにばれてしまい、大会への出場を禁じたが、顧問はこれを無視して出場させた。加害者たちは、以前にも下級生に対するいじめや暴力をしていたことが判明していた。この顧問の教諭が停職6カ月の処分を受けたということである。
そして、この「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」の記事は、「いじめ隠蔽に基づく懲戒処分がなされたこと自体、画期的なことであり、この判断をした教育委員会の英断を頼もしく感じます」と書いている。
教師に対する懲戒規定の新設に反対する私も、この処分に対しては、異議はない。ある意味当然だろう。逆にいえば、現行法でも、こうした行為に対する処分は可能だということを意味しているのであって、別段新設は必要ないのである。この場合、どのような理由での懲戒処分になったのかは、この記事だけではわからないし、また、この自治体の学校管理規則がわからないので、断定はできないが、地方公務員法の規定では、信用失墜行為、更に安全配慮義務などの違反として、処分がなされうるだろう。
明らかに、教育者としてあってはならない「虚偽報告の強制」をしているわけだから、懲戒に値するだろう。それから、より詳しく調べれば、おそらく、いじめや暴力によるけが人を出し、かつ、試合の出場を禁止されたにもかかわらず、出させたということで、加害者たちのいじめや暴力を、この顧問自身が、そそのかしていたとまではいわないが、黙認していたと考えられる。つまり、ある意味、いじめや暴力に対する加担があったと認定される可能性が高い。
こうした行為については、はっきりと処分がなされるべきである。また副顧問や校長は、しっかりとした対応をとったというべきだろう。
山形県天童市の事例で考える
私からみれば、この事例は、隠蔽があったときには、懲戒処分をするという「規定を新設」する必要がないことの照明になるのだが、会からみれば、だから、必要なのだということになるらしい。
しかし、他の事例なども考えれば、ことはそんなに単純ではない。
山形県天童市でおきた中学一年の女子生徒の自殺事件を考えてみよう。
中学入学以来、ずっといじめにあっていた生徒が、山形新幹線にはねられて死亡したが、3学期の始業式の当日で、新校舎ができたときだったが、新しい校舎に来るな、などといわれていたらしい。自宅から、いじめを受けていたことを告げ、本当は死にたくなかったと書かれたノートが発見された。
いじめは暴力ではなく、悪口、無視などで、クラスでも部活でもあったという。クラスのなかに、悪口などをいう中心的な女子生徒がいて、まわりは傍観者というよりは、むしろ加担者といってもよいだろう。というのは、いじめは、あわせて無視、仲間にいれないということだったから、口をきかず、仲間にいれないということは、単なる傍観ではなく、いじめそのものを構成していたからである。
また、部活(ソフトボール)でも、同じような状況におかれた。というよりは、むしろこちらのほうがきつかっただろう。ソフトボールはキャッチボールなどのようにふたり一組で行う練習があるが、この女子生徒は、ペアを組めなかったという。ペアを一生懸命探しても誰も相手にしなかったし、探す様子を笑うこともあったようだ。奇数であれば、3人のペアでも充分な練習になるわけだから、ペアを組まない状況を改善しないとしたら、部全体のいじめともいえるだろう。
子どもは、いじめにあっていることを親にいっていたので、親は、担任の教師に対応を要請していた。最悪の結果になったのだから、担任の対応は不十分であったことになる。むしろ、大きな問題は、部活で、顧問は、彼女がいじめられていることを知り、みんなの前ではっきりと気持ちを述べさせたという。しかし、それは逆効果だったようで、いじめはもっと激しくなったようだ。みんなの前で言わせるといっても、基本的にはいじめの被害者がまず自分の気持ちを述べ、それに対して、部員たちに言わせる。しかし、そのときには、顧問は被害者の味方となって、フォローするということが必要だったろう。しかし、どうもそのときの雰囲気では、むしろ加害者たちが、その女子生徒への批判を述べ立て、女子生徒は最後に泣きながら、仲間外れにしないように訴えたという。顧問が、やろうとしたことは、おそらくわだかまりをお互いになくすことだったのだろうが、明らかに、顧問はこうしたやり方に慣れていなかったのだろう。
親は、そうした部活はやめたほうがよい、と説得したが、内申が不利になるということを危惧して、本人がやめずに続けたということだ。その学校は、全員部活制で、更に、3年間変えないことを原則としていたという。自殺したあと、校長が、「いじめはなかった」と述べたが、アンケートには、100名以上がいじめを認識していたことが書かれており、アンケートの開示を巡っても、揉めている。いじめは隠しようがなくなり、教育委員会は第三者委員会を設置し、(そのメンバーでも揉めている。)いじめであったこと、学校の対応が不適切であったことが認定され、和解が成立している。刑事事件としての捜査もなされたが、犯罪と認定されるような行為はなかったとされた。
以上が、事件の概要である。
「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」からすれば、誰を懲戒処分にすべきだというのだろうか。
いじめを隠蔽したという意味でいえば、校長だろう。「いじめはなかった」と述べたのだから。しかし、「ネットワーク」の記事を読んでいても、校長を罰せよというニュアンスは感じない。あくまでも、子どもと接している教師に対してである。
被害者の親は、「学校側が適切に対応していれば、被害者も加害者も生まれなかったと悔しさをにじませた」と述べている。では、その「適切な対応」とはどんなことだったのだろうか。
事件後、学校は、1年生の部員10名と、同級生全員の30名を個別面談で指導したという。とくに中心的ないじめ加害者は、第三者委員会の報告で名前であげられたようだが、傍観者であることの問題も意識させること、加害者と傍観者の線引きが難しいということで、全員となったようだ。というよりは、むしろ、暴力的いじめではなく、話をしないという無視の形をとっていたので、やはり、ある意味クラスのほとんどが加害者的役割を果たしていたというべきなのだろう。
クラスのほとんど全員が、特定の生徒を無視しているとき、中学の担任は何ができるのだろうか。確かに、かなり優れた教師なら、事態を打開できるかも知れない。しかし、担任が何の担当だったかわからないが、実際にクラスを教える機会は、それほど多くない。もちろん、学校としての連携がとれていれば、他の教科担当の教師も協力して、対応できるだろうが、「いじめはなかった」とメディアに述べるような校長だから、そういう体制がとられていなかったことは容易に想像がつく。
部活の顧問が、事態を結果的に悪化させたことは確かだ。そして、日常的な指導としても、おそらく「勝利至上主義」で、新入部員のなかで起きている事態などに、目がいかなかったのだろう。顧問が、ペアを具体的に指示するなり、余ったら3人でやるように指示して、実施させておけば、そこで交流が始まった可能性もある。
しかし、この顧問にあきらかに未熟な点があったとはいえ、懲戒処分の対象になるだろうか。
むしろ、個別の顧問の指導よりは、学校としてとっている全員部活制により重大な要因があったと考えざるをえない。親が、女子生徒に、部活をやめるようにアドバイスしたところ、内申が悪くなるのでやめない、という選択をしたことは先述した。本来学校教育に含まれない部活を、学校が強制すること自体が極めて大きな問題である。本当に内申が悪くなるのかはわからないが、この学校では、3年間部活を変えないということも、原則になっていたという。これは、私に言わせれば、最悪の部活体制である。全員部活制であることも大きな問題だが、変更不可能などというのは、ありえないのではないか。組織が自分にあうかどうかなどは、選んで初めて本当のことがわかるのであって、よいと思って入ったが、実際には自分にあわなかったということは、いくらでもある。そういうときに、変更可能にしておくのは、常識ではないだろうか。
もし、学校が、普通に部活にはいっていない人がいて、変更する人も少なくない状況であれば、この事件はおきなかったともいえる。こういうシステムに問題があったとしたら、それは誰を懲戒処分にするのか。
担任の教師はどうだろうか。
第三者委員会の報告書に記載されているところでは、心配した担任が、女子生徒に、「大丈夫か。」「大丈夫ですよ。心配しないでください。」「何かあったら遠慮なくきてくれ」というようなやりとりがあったという。もちろん、この程度のやりとりは何度かあったろう。報告書は、本人が大丈夫といっても、もっと相談にのるとか、手段を尽くすべきであったと書いてあるが、私からみれば、極めて忙しい教師の立場からすれば、本人が大丈夫、心配しないでくれ、といえば、そうかとなるのが、自然ではないかと思われる。もちろん、もっと積極的な対応をすればよかったことは事実であるが。
校長はどうだろうか。懲戒を求める「ネットワーク」は、隠蔽を重視しているようだが、そういう意味では、隠蔽するのは、ほとんど校長や教育委員会である。実際にいじめが進行している間は、なんといっても子どもたちは知っており、何人かは、親に話しているだろう。担任がまったく知らないままいじめが激化して、自殺に至るということはないだろうし、結局、隠蔽などしようがない。自殺が明るみにでたときに、既に校長以外の教諭たちは、メディアの前でしゃべることを通常禁止されるから、担任が隠蔽する「行為」はとりえないのである。すると、やはり、隠蔽を理由に懲戒処分にするとしたら、それはほとんどが校長と教育委員会になるだろう。
では、何故校長や教育委員会による隠蔽、あるいは「いじめはなかった」という見解がおきるのだろうか。それは、いじめが原因であることがわかれば、当然国家賠償の責任が生じるからである。いじめがあり、適切な対応ができなくて自殺者がでてしまった場合、当然、校長や教師たちの責任が問われる可能性がある。懲戒処分はかなり限定されるとしても、求償される可能性は法的に存在している。だから、運営側は、なんとか隠蔽しようとするのである。そして、その行為自体が、あらゆる意味で事態を悪化させる。被害者の家族をより大きく悲しませ、また怒らせる。そして、裁判にもなりうる。
しかも、一番大事な、なぜいじめによる悲劇が防げなかったのかに関して、当事者の検証がなされないことになる。
この悪循環を絶つ仕組みが必要なのである。
第三者委員会という検証形態
いじめによる自殺者がでると、多くの場合、第三者委員会が設置されて、検証される。しかし、私は、この方式にあまり賛成することができない。何故かというと、第三者委員会は、たいてい、この自殺の要因が、いじめであったかどうかを検証することが目的とされ、(目的ではなくても、事実上そのように機能する)たいていは、いじめが原因であったと認定されて、その後の賠償問題につながっていくことになる。
しかし、一番大事なことは、なぜいじめが起きていたのに、学校、教師はそれに適切に対応できなかったのかを、現場が検証して、今後の有効な対策を、学校全体で共有することではないだろうか。ところが、第三者委員会は、ほとんどの場合、当該学校関係者は、まったく含まれず、適宜聞き取りに呼ばれるだけである。だから、ある意味、有罪か無罪かの判定に限定されることになるのである。しかし、自殺の要因がいじめであったかどうかなどは、裁判所が認定すべきことであって、第三者委員会などがやる必要もない。
だから、いじめの自殺事件が起きても、教訓がその後いかされないのは、「教訓化」されないからではないだろうか。
こうした悲劇は、医療現場における医療ミスに似ている。やはり、日本では、あまり実施されていないが、アメリカでは、免責をあたえるかわりに、徹底的な検証を現場にさせるようだ。日本でも、もちろん医療ミスがあれば、当該病院で検証をするだろうが、免責があたえられていないので、どうしても、不徹底になると言われている。
だから、日本でも、とりあえず、行政処分に対する免責をあたえて、学校の教師に、第三者を加えた組織で、検証作業と教訓化という作業をすべきなのである。(学校の教師集団だけではなく、第三者も入ることは必要だろう。)
被害者に対する保障は、国家賠償法でやればいいので、この方式のほうが、ずっと賠償をしやすくなるように思われる。適切な対応がとれずに、悲劇を防ぐことができなかった教師が、過失はなかったかのようないいわけをする必要がなくなるわけだから。もちろん、明確な加担が教師になったならば、それは刑事罰の対象となるので、別問題である。
無過失責任による保障の部分を、より大きな金額としておけば、過失認定による賠償の部分をより少なくできる。そうすることで、学校が、過失を認めることを避けたがる要因を小さくし、また、その過失による懲戒がないことを保証することで、徹底的な事実の検証と、何ができたのか、そのような場合に、どのようにすべきなのかを、学校の教職員全体で議論し、まとめることを義務づけるべきなのである。第三者委員会による検証は、この議論を事実上やりにくくするし、概して、学校に対して防衛的な姿勢をとらせることになるのである。
福島からの避難者だった?
この女子生徒が何故いじめの対象になったのか、報告書の要旨を読んでもよくわからない。とにかく、早期にいじめがはじまり、それはクラス全体、部活全体に及んでいた。そして、誰もとめるものがいなかった。話さない、仲間にいれないということだから、暴力的ないじめを防ぐことよりも、防ぐことは、かなり容易だったはずである。気軽に話しかける者が数名でもいれば、まったく状況はかわるだろうし、部活で、相手がいなくて、一生懸命に探しているのだから、普通ならば、じゃわたしが、という者がでてきてもおかしくないし、また、顧問が、なんらかの指示をするのが普通だろう。この顧問は、そういうことをまったく知らなかったのだろうか。顧問が、だれだれが相手をしてやれといえば、済むだけのことではないだろうか。
この女子生徒がおとなしく、自分から積極的に話しかけるような性格ではなかったとされるが、そのようなことだけで、集団的、継続的な仲間外れにはならないはずである。
私が気になったのは、あるネット上の書き込みで、彼女が福島からの避難者だったというのがあった。事実はどうか、いろいろ調べたが、わからなかった。そして、この地域では、余所者に対して、非常に排他的な雰囲気があるということも、いろいろなサイトで書かれている。これも正確にはわからないが、もし、そうだとしたら、これは、地位的なある種の排他性の問題であって、そのことに踏み込まない「検討」は、あまり意味がないように思われるのである。
いろいろなサイトや、この報告書の要旨を読んでも、いじめにあった女子生徒に、いじめられる要素はまったく感じない。いじめの被害者は、いかなるときにも、いじめられることに対する責めを負うことはあってはならないが、ただ、いじめられる要素があることが否定できない場合が少なくないことも事実である。しかし、この生徒には、まったくそれが感じられないのである。おとなしいとか、自分から話しかけないとか、本を読んでいることが多いとかは、極めてまっとうな性格であり、なんら「あいつは変だ」などといわれることではない。
とするならば、悪口をいうある特定の生徒の問題があるとしても、むしろ、集団的な排他性こそが、いじめの要因としてあると考えられるのではないか。
そうした排他性を学校として克服しない限り、いじめは決してなくならないはずである。当事者の教職員による徹底的な検証と、自由な討議は、克服のために不可欠なのである。