日本における「報道の自由」の国際ランクが落ちて久しい。実は民主党政権のときには、かなり上位だったようだが、安倍政権になって、韓国よりも下位になっている。日本人のあるひとたちは、韓国を下にみているが、実は、韓国のほうが上である領域はけっこうあるのだ。とくに、民主主義の度合いについては、かならずしも日本のほうが上ではないのである。とくに、大手のメディアがほとんど安倍政権への忖度報道になっていることで、国民の目に重要なことが伝達されていないことが多くなっている。報道の自由や表現の自由は、民主主義社会の根幹である。民主主義の社会でない場合には、こうした自由は、踏みにじられるのが普通であり、歴史的には、そうした不自由な時代のほうが長いし、また、民主主義社会ということになっていても、絶えず、報道や表現への介入はある。必ずしも「国家組織」ではなく、私的団体が圧力をかける場合もある。日本は、民主主義といっても、このふたつの自由は、かなり危うい状況になる。
その象徴が、2019年の愛知トリエンナーレにおいて「表現の不自由展その後」が開催されたが、わずか3日で中止となったことだろう。この時期、私は日本にいなかったので、詳細を知らなかったのだが、帰国後このことを知り、多少調べてみた。とくに、伊東乾氏が、JBpressに何度か寄稿しているのを読み、考えさせられた。伊東氏の趣旨は、この展示の責任者の準備不足と認識の甘さが、このような事態をもたらしたというものである。とくに、事前に、何を展示するか公表せず、また、当然予想されるはずの反対行動に対する対応を準備しなかったことに、短時日に敗北してしまった原因を帰している。後で検討しよう。
愛知トリエンナーレの「表現の不自由展その後」は、2015年に東京で開催された「表現の不自由展」を受けてのものである。これは、公的施設で、展示を拒否された作品を集めた展示であった。開かれた場所は、練馬区の小さなギャラリーだった。見るために集まった人たちは、15日間で2700人だったという。この数値を多いとみるか、少ないとみるかは、微妙なところだと思うが、その数よりも、展示に対する妨害で話題となった。
更にこれには前史がある。名古屋市在住の韓国人写真家安世鴻(アンセホン)氏が、元慰安婦の写真展を企画し、一端会場使用を認めたニコンが、一方的に中止をさせたことに対して、契約違反として提訴したところ、東京地裁が、契約後の一方的な中止は、「表現活動の機会を失わせることになり、正当な理由がない限り信義則違反だ」との判決をだしたことである。この判決が、「表現の不自由展」開催への動機のひとつとなったようだ。
ニコンも、「表現の不自由展」も、民間の施設で実施されたが、今回の愛知トリエンナーレは、愛知県や名古屋市がかかわっている公的施設によるものである。ここが、微妙な問題を孕ませることになる。
2015年に東京で開催されたときにも、かなり激しい反対の動きがあり、脅迫などもされた。入館者の写真をとって、ネット上に晒すなどという脅しもあったために、入場者が姿をみられずに入れるような覆いをつけたり、主催者側は、かなりの神経をつかい、防衛手段をとっている。その続きの催しなのだから、当初から妨害は予想されたことであり、そのための準備が不足していたことは、どうやら事実のようだ。東京の実行委員の中心であり、かつ、今回の愛知の実行委員でもあった岡本有佳氏は、準備段階で、何度も、嫌がらせを受けたときの対応の訓練や、人員の増員、児童録音や番号通知機能のある電話の配備などを提案したが、いずれも、岡本氏の目には不十分に写った。
伊東乾氏の議論への疑問
伊東氏は、もっぱらそうした対策の不十分性、とくに費用の問題を論じている。それがよくわかるのが、何度か寄稿したうちのひとつの題だ。「『慰安婦』炎上狙いでテロ誘因、膨大なコスト増」というものだが、出典作品をぎりぎりまで発表しなかったのは、話題性を高め、炎上という宣伝効果を狙ったのではないかというものだ。そのことによって、必要な準備もせず、膨大なコスト増を引き起こしたというわけだ。この場合、中止してしまったので、警備にかかる費用などのコスト増はなかったのだが、中止という手痛いコストを払わざるをえなくなったのは、運営の責任であるというのが、伊東氏の主張である。
確かに、岡本氏のいうように、内部の人間から既に開始前に警備にかかわる対応が不十分であると指摘されていたのだから、主催者側の不手際は否定しようもないと思うが、ただ、展示作品をぎりぎりまで公表しなかったのは、津田氏の説明によれば、警備上の問題を警察等含めていろいろな方面に相談していたが、そのなかで、作品の公表は、ぎりぎりまで待ったほうがいいとアドバイスされたからそうしたというので、必ずしも炎上狙いというわけではないようだ。
しかし、確かに、主催者側の甘さは否定すべくもないが、なにか伊東氏の論調をみると、主催者側の欠点だけが指摘され、妨害者や河村市長のもつ問題について、まったく触れないことに、違和感を感じざるをえない。なぜなら、もっとも非難されるべきは、暴力的に潰そうとする勢力であって、実際に街宣車などを繰り出して妨害するわけである。
例えば、欧米の都市などでは、夜外出すると危険だとされている地帯がある。そこを通って襲われたとき、もちろん、通った人の不注意は責められるべきだが、だからといって、襲った人の問題を不問に付すことはありえない。やはり、襲った人が一番悪いのである。だが、伊東氏は、津田氏が最も悪いかのような論調で論じている。もちろん、襲撃予告した人間とかは、議論の考慮の外におき、あくまでも中立的な立場で議論すると書いているのだが、こういう問題に中立はありえない。それが社会科学の常識である。
何か施設利用で問題が起きたとき、施設管理側は、公的施設においては、政治的主張をもった利用は認められないというような理屈をだすことが多い。本音は、その政治的主張に反対しているとしても。今回河村名古屋市長が、いわゆる慰安婦像の展示を認められないと宣言したことは、この本音による反対にあたる。実際にこうまで首長が語ることは、めずらしい。
他方、公的施設は、利用者たちの政治的主張に関与してはならないとする議論もある。
実際に、公的施設が、当初利用を認めているのに、それを覆して、利用拒否をする場合は、ほとんどが、外部からの妨害や脅迫によるものである。実際に、当事者として経験したことはないが、私の近所でそうした脅迫や妨害を目のあたりにしたことがある。すさまじいスピーカーのがなりたてる音と、それがそこらを走り回る街宣車から出ていることを知って、外に出て確認してみると、近所に文化会館があり、そこで日本共産党の演説会が行われていた。文化会館の周辺は多数の警察官が取り囲み、その周囲に街宣車が入り込めないように、規制していた。だから、街宣車は、ものすごいボリュームで何か喚きながら、集会が行われている間、ずっと走り回っていたのである。何台くらいかはわからなかったが、かなりの数の街宣車だった。警察官が阻止していなければ、雪崩込んで集会を崩壊させたのか、それはわからない。政党なので、警官の力を借りても、実行したのだろうが、文化団体なら、そうした動きを察知した時点で、中止するか、会館が場所を貸さないだろうと、「実感」として味わった。と同時に、こういうなかで、「表現」を実行することの困難さをひしひしと感じた。あのような街宣車は、自分たちの活動で賄っているわけではないだろう。かならず援助しているひとたちがいるはずだ。騒音条例などに違反するはずであるし、脅迫罪などにも該当するはずなので、警察は「防衛」だけではなく、取り締まりをきっちりとすべきではなかろうか。援助しているひとたちが、それを妨害しているのだろうか。(続く)