『教育』2019.9を読む 学校での「縛り」

 『教育』9月号は、この読書ノートを始めてから、最も読みごたえのある特集であり、興味深い文章が並んでいる。特集はふたつあり「縛られる学校、自らを縛る教師たち」と「誰もが何かのマイノリティ」で、前者には、8人が、後者には、6人が執筆している。「縛り」は、「とびら」の文章にあるように、現在の学校を蝕んでいる大きな要因のひとつであり、しかも、それは、教育行政によってもたらされるものだけではなく、教師自身、学校自身がみずから作り出している悪弊なのである。私が、このブログの「学校教育から何を削るか」のシリーズで、慣習的なことがらをいくつかあげたが、これも、「縛り」に関係している。教育は、子どもたちの千差万別の能力や個性を発達させる行為なのだから、最大限の柔軟性が必要である。柔軟性がなければ、子どものなかにある宝を見いだすことができないし、また、みんなが認めているような宝をもっている子どもがいても、その能力を更に伸ばすことができないだろう。みんな、もっているものだけではなく、伸ばし方も違うのだから、形式主義が支配したら、教育はそれだけ効果を失ってしまうのである。そんなことは、誰だってわかっていそうなものだが、実は、ほとんどの教師たちは、形式に囚われている。
 もちろん、意図的にそのように縛っている人たちもいる。管理職の少なくないひとたちは、そうだ。縛っておいて、形式的なやり方を徹底すれば、管理がしやすい。そして、そうした「やり方」を押しつけるとき、小さな権力者は、自分の権力を実感して、満足に浸るものなのに違いない。管理好きの管理主義者は、形式的基準を作成して、守らせるのが好きだ。下駄箱での靴がきちんとそろっていれられているか、掲示物が指示したような形にきちんと貼られているか、起立・礼や発言のルールが徹底しているか等々。そういうなかで育ってきた学生、そして教師たちも、そういう習慣が浸透している。学習方法などもそうだ。
 巻頭の塩崎義明氏の『「学校珍百景」「闇百計」が生まれる理由』と題する文章は、こうしたおかしな習慣が生まれる理由を3つあげている。
・お上が決めたことを強引に、子どもや地域のリアルが現実を無視して、子どもたちや教師に守らせる。
・競争の土壌に学校まるごと乗っかっている。
・見た目や形ばかりの「いい子モデル」「いい教育」が前面にだされ、だれもが意味ないとわかっていても押し進めざるをえない。
 塩崎氏は、こうした珍百景の本をだしているようで、そのなかからか、いくつか紹介されているが、なかでも笑えたのは、次のような話だ。
 学力テストで一位をとったら、ビールかけをして私を胴上げしてほしい、と言い出した校長がいるということだ。どういうレベルで一位なのかわからないが、少なくとも、全国学力テストでは、学校ごとの順位は公表されないはずだから、自治体レベルの学力テストなのだろうか。こんな校長発言がだされることだけでも、その学力テストの有用性が疑われるというものだ。
 「いい子モデル」の例として、「職員室のはいり方」が紹介されているが、これは、誰でも知っているだろうから、省き、そのあとに、これを破ったとても素敵な「できごと」が紹介されている。
 4月早々に、自閉症の傾向のある、筆者のクラスの子どもが、突然職員室にはいってきて、「今日は、先生方にお知らせしたいことがあります。それは、ぼくはとりがすごき好きだということです。」といきなり話をはじめたというのである。探検帽子をかぶり、首に双眼鏡をかけている。驚いた教師が、担任の筆者になんとかしろという目配せをしていたが、筆者は、最後まで彼の話をきいてやってくれ、とお願いしたところ、みんな聞いてくれた。彼は、鳥が好きな理由、でも肉は食べる、鳥は恐竜の子孫であること、100種類以上の鳥の名前をいえるようになることが目標だと、語り終わると、大きな拍手が起こったそうだ。彼は満足してお辞儀をして帰っていったが、その後、クラスで活発に活動するようになり、尊敬をえるようになったという。
 塩崎氏は、自分の学校を、管理的だと評しているが、そういうなかでも、実は教師たちは、もっと「教育的であること」を望んでいるのだということがわかる。それを引き出す勇気が大切なのだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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