『教育』2019.9を読む 学校の「縛り」2

 自分で考えたことを否定され、決まったことに従うことを強制された事例がいくつも掲載されている。まず、角谷実氏の「私はロボット、何も考えられない」。題名からして、憂鬱になる。初任者研修のための指導略案つくりの話である。「スイミー」をやることになっていて、「文と絵をもとにスイミーが考えたこと、一人になった寂しさ、そして深海の底で出会ったすばらしい世界をみて元気を取りもどしていくスイミーの気持ちを考えていこう」として、子どもたちから、いろいろと引き出すことを目指す指導案を、長い時間をかけて準備していた。そして授業をして、子どもたちは活発に意見をいう。そして、その日の放課後、指導教員の講義。
 「今日の授業のねらいはなんだったの?大きな魚が出てきた場面しかやっていなかったけど、どうしてあの場面で区切ったのかな。教育課程はみている?」
 そこで、4月に配布された教育課程をだすようにいわれ、見てみると、教育課程には、単元、時数、1時間1時間の授業の流れ、目標が事細かに書いてある。教科書会社の指導編を書き写したものだと、角谷氏。
 「今日の授業はどこに書いてあるの?」
 「・・・ないです。自分で考えました。」
 「そうだよね。公教育なんだから、先生らしさじゃなくて、教育課程どおりにやらないといけないよ。日本全国どこの学校にいっても同じ教育にならないといけません。」
 角谷氏によると、この指導教員は、極めて優れた教師で、「子どもを惹きつける語り口、準備された板書、緊張感のある教室、考え抜かれた発問で、的確に意見を引き出し、よどみなく授業が進行していく」のだそうだ。
 結局、その後は、指導教員のいうような授業をするようになる。
 正直なところ、題名のように、何も考えられないようになってしまったのかも知れない。指導教員のいうことを、本当に正確にきいているのか、あるいは、指導教員は、彼の考えるほどすぐれた教師なのか。日本全国同じ教育が行われなければならない、というような教師が、考え抜かれた発問で、子どもから的確に意見を引き出すなどということがあるのか、あるいは、「子どもとたくさん遊んであげるんだよ」と助言されたようだが、そんな時間がないように、授業案を書かせているというのも、妙だ。本当に優れた実践力をもっている教師なら、日本全国どこでも同じ教育がなされなければならないなどということをいうはずがない。子どもたちの集団的性格によって、授業のやり方は変えなければならないことは、優れた指導力をもっている教師なら誰でも知っている。
 次は新川裕希氏の「選べるのは『はい』か『YES』」
 新川氏は、前任校が、さまざまなことを話し合いできめて実践する学校だったが、いま在籍している学校は、話し合いをしても、校長の許可をえなければならず、校長の見解と異なると一切受け付けられない。だから、あまり話し合いなどもせずに、前例にならなって、ことが進行していく、というような学校だ。運動会があまりに子どもたちに負担の大きなものだったので、2時間かけて負担を減らす案を考えたところ、校長の許可はえたのかという同僚教師の助言で、校長に説明にいったところ、去年通りでよい、と一蹴されたというのである。もっとも、ひとつだけはきいてもらえたということだが。(徒競走の着順判定がしやすいようする工夫)年度末の反省会も30分で終了し、ほとんどなにも反省しないで終わってしまうようだ。だが、新年度になると、突然重要なことが変更になっており、どこで決まったか、誰も知らされていない。
 ここまでくると、校長の権限が、完全に誤解されているように思われる。校長の監督命令権は、あくまでも校務に限られ、教育活動そのものについては、指導助言をするのみである。ところが、教育活動そのものについても、校長の専決事項のように運営されているようだ。
 新川氏の学校は、文部科学省が規定する校長に権限があり、職員会議は執行機関という位置づけを忠実に実行しているということだろう。しかし、そこにある教師たちの無力感が、文科省の教育的意味を端的に表している。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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