今回は、未来の教育を空想してみることにした。私は未来学者ではないし、また、テクノロジーの専門家でもないので、むしろ、こういうことができたらいいという希望のようなことになる。
未来といっても、そんなに遠くではなく、せいぜい20年後程度までを考える。通信速度は、5Gあるいは6Gそれ以上になっているだろうが、今と比べれば格段に速くなっている。現在、多くの学校で一斉に子ども全員がネットを使用した教育活動をしたら、ダウンしてしまう可能性も高いが、その時点では、動画を個別に使ったとしたも、スピードが落ちることもない。コンピューターの推論、判断、過去データの適切な使用等々がすばやくできる。だから、自分で検索するだけではなく、音声ですばやく回答があり、更に補充的説明などを加えてくれるAIソフトができている。音声認識や手書き文字の正確な認識が可能になっている。現在のスマホ、タブレット、VR機器が同じ形態で使われているとは思われないが、より、便利な形でそうしたアイテム、器具が容易に使用できるようになっている。人型ロボットが、現在よりもずっとスムーズな動作がすばやくできるようになっている。
こうした前提で、考えてみた。
1 未来の学校の不登校対策
多くの仕事が職場以外で可能になるだろうが、学習活動も同様だろう。授業は家庭でも、また公園でも受けられるようになる。その時代に、学校でなければ授業を受けるべきではない、というような社会意識が残っているとも思えない。しかし、学校に在籍していたとしても、学校にいきたくない、つまり不登校はでるだろう。
不登校になる要因は、勉強についていけないからだ、勉強がいやだ、という理由であることは、滅多にない。精神的な疾患がない限りは、だいたいは人間関係である。人間関係は、教育の重要な対象ではあるが、学校教育の最も重要な課題ではない。課題は、勉強を教えることである。もし、学校に行かなくても、学べることにすれば、不登校はかなり改善されるだろう。その基本的なスタイルは、教室の授業が常に映像で撮影されていて、それを子どもが別の場所でも見ることができるし、当然発言したり、質問したりできるものである。不登校だけではなく、病気で休んでいる場合なども、可能になる。スマホ、タブレット、PCの後継マシンで学ぶスタイルが拡大していく。
2 それは、授業が映像として蓄積されることも意味する。
蓄積された映像は、詳細に分類され、翌年なら、反転授業の素材として利用可能になるし、また、優れた授業は、全国的に開示・利用されて、子どもたちは、それを材料に学ぶことも可能になる。
子どもたちは、予め、予定の範囲に相当する授業をみてきて、授業では、それをもとに、授業をするという反転授業は、教材の整備などがネックになると現在では考えられているが、そうしたアーカイブが蓄積されれば、かなり解決する。そうして蓄積された授業映像は、授業の質を高めるための研究材料として使用できる。
しかし、どれほどICT技術が向上して、データが蓄積されても、人間が対面で教えることの意味がなくなることはないだろう。教育の目的に、人間関係を築くこと、社会生活を営む資質を修得することがあり、それをICTで完全に代替することはできない。街での実習なしに、運転シミュレーションの機械の訓練だけで、免許証を発行するわけにはいかないのと同じである。もちろん、その当時、完全自動運転が完成して、免許そのものが不要になる可能性はあるが、それでも、自分で運転したい人のための免許制度は残るだろう。人間関係は、その「残る部分」に対応するわけである。
3 歴史学習のVR
城田真琴氏は、VRの教育応用形態として、アルプス、万里の長城など、実際には、いけない場を教室で仮想的に訪問するという例をあげているが、リアルな感が増大するとしても、現地でとった映像を見るのとそれほど違いはないように思われる。私が魅力を感じるVRは歴史の体験授業だ。
例えば、桶狭間の決戦の前夜、清洲城に集まった織田家の家臣たち。生徒の誰かが、例えば柴田勝頼になる。籠城、出撃、今川の状況報告等々、データは詳細に利用可能になっていて、意見を述べると、AIが割り当てられた他の重臣たちの立場にたって、意見を述べる。必要な情報や他の意見がだされる。信長にも誰かがなるということもありだろう。他のどんな歴史的場面でもよい。農民が一揆を起こすかどうかの相談でもよいし、
こうした歴史的場面に自分たちが入り込んで、そこで能動的に活動してみる。そのことによって、違う歴史的展開が見られるかも知れない。そういう学習法は、歴史をかなり多方面から学ぶことを可能にするだろう。
社会や政治、経済などの学習は、このようなVRを使用しなくても、人と人との関係をそれぞれに模して学ぶことはできるだろうが、やはり、歴史をリアルに学ぶには、より進歩したVRが有効であると思われる。
理科については、現在医学などの最先端で使われているVR技術が、学校の現場で、他の領域の理科学習に利用可能になっていると思われる。
4 多重在籍の学び
学校などの学ぶ組織は、単一に所属する必要はなく、メインの在籍はあるとしても、多様な場での学習を前提として、自ら、学習の場を選択、組織していくようになるのではないだろうか。もちろん、既に、学校だけではなく、塾、習い事、メディアなど多様に学んでいるが、知的な学習は、よりネットワークを主な場として、多重的な所属が普通になる。翻訳技術がより高度に、かつ利用しやすくなれば、小学生でも日本に居ながら、外国の学習組織に、所属して学ぶことも可能になるはずである。
5 いじめや事故対策
上記のような学習は、それらを積極的に使うことができる子どもたちに限定されると思われるかも知れないが、学習が遅れた子ども、障害のある子どもの学習も、ICTの活用によって、学習援助が向上すると考えられる。既に、ロボットのNAOは、自閉症の子どもに対する指導の援助として有効であるという報告がある。
また、いじめの早期発見に、AI技術が使われるようになる。現在、医学への応用として、AIを使った診断がかなり取り入れられているという。人間がわからないような、微細な特質を識別することができる。教室や廊下、玄関に設置されたカメラが、子どもの表情を写し、普段と違った微細な表情の違いを見分ける、そして、いじめられることででる特質が現われている子どもを、教師よりも正確に把握できる可能性がある。
また、体育などでの学校事故は、子どもの健康状態が悪いのに無理に参加して起きることが少なくない。体調が悪いとの自覚がない場合もあるし、あっても言い出しにくい場合があるだろう。健康チェックも瞬時に行って、体調の悪い子どもを見分けることで、事故を防ぐ可能性が高まるのではないだろうか。
防犯カメラ的で批判的な見解もあるだろうが、授業中の事故のなかには、教師が他の子どもの指導をしているときに、まったく別の子ども同士がふざけて、あるいはある子どもが、ふざけていたずらをしたことで起きるものが少なくない。そのような場合、教師が把握することは困難である。そうしたとき、教師の目の届かないときに、子どもの行う危ない行為を、瞬時に警告するなどの装置が可能になる。それを設置することの是非は分かれるかも知れないが、特に荒れた教室の改善には、有用だと思われる。
6 創造性・リテラシー
21世紀に必要となる能力、リテラシーやコンピテンシーは、そのなかでも創造性や批判的思考力などは、ネットを介したICTによって、主に鍛えられていくのではないかと思われる。プラトンの時代は、ほとんど教師の講義を聞くことが学びであったと思われる。そもそも印刷された教科書などは存在しないのだから、文献を筆者することはあっても、文献で学ぶことは極めて少なかったはずである。印刷術が発明されて、書籍を使うことが可能になり、新聞や雑誌が発行されると、ニュースなども学べるようになる。ラジオ、テレビが実現すると、更に学習手段は多様になってくる。そして、インターネットはそれらを総合するものであり、今や、学校で学ぶことも、予習復習を考えれば、教室以外のメディアを使って学ぶ時間が多くなってくる。授業など受けなくても学べる環境があるともいえる。そういうなかで、創造性や主体的に学ぶ姿勢、あるいはコミュニケーション能力ですら、ネットを媒介とする学び方が、最も効果的で確実になっていくのではないだろうか。