未来の教育研究13 創造性

 未来の教育の必須アイテムのようなものが「創造性」である。未来の教育を論ずるときには、必ず出てくる。しかし、創造性の意味は、誰にでもわかるものだが、どのようにして教育すれば、創造性を育成することができるのか、これをしっかりと書いている書物、あるいは提言は、私の不勉強もあるだろうが、まだ見たことがない。そもそも、創造性を教育というシステムのなかで育成できるものなのか、教育は、常識的には既存の文化を教えるものだから、創造性を教えることとは無縁なのである。しかし、知識基盤社会を生き抜くためには、創造性が不可欠であるとされる。そのことは間違いないだろう。キャッチアップ時代にはずっと上昇傾向できた日本経済も、キャッチアップした段階以降は、その勢いを明らかに失っている。近年は科学研究の勢いも失っており、将来はノーベル賞はとれなくなるとも言われている。 
 こうした状況は打破しなければならないだろう。
天才を育てる学校教育はない
 創造的なアイデアを生むための手法というのは、いくつかある。KJ法とか、ブレーンストーミング、等々。しかし、これらは、通常は集団討議のなかで、新しいアイデアを生むための手法であって、創造性をもった人間を育てる手法ではない。
 端的にいえば、そのような確実な方法は、生まれていないし、また、おそらく、生まれないだろうともいえる。20世紀最大のピアニストと言われるポリーニが語ったという興味深い話がある。ポリーニは、18歳、高校生のときに、最高の難関であるショパンコンクールに優勝して、その後ベルディ音楽院に入学した。ショパンコンクールで優勝するということは、世界のトップのピアニストになることが保障されたようなものだから、わざわざ音楽学校にいく必要もないわけだ。一体何を音楽院は教えていたのかと、あるインタビュアーが彼に質問をした回答が次のようなものだった。

 「音楽大学というのは、天才が入ってくるのをひたすら待っている。」「天才が入ってきたらどう教育するのですか?」「天才は教育する必要がないので、何もしない。」

 もちろん、天才でも、天才でない人でも、音楽大学である以上、規定のカリキュラムにそって教育をするのだろうが、要するに、天才を育てることはできないのだ、とポリーニは語っていることになる。ポリーニは天才的ピアニストであるが、しかし、創造的な天才といえるかどうかは、別だ。おそらく、当人は否定するだろう。音楽の分野で創造的な人は、作曲家であろう。最大の天才であるモーツァルト。
天才は集中から生まれる
 モーツァルトはもともと極めて優れた遺伝的素質として、音楽の才能に恵まれていたが、それが開花したのは、父親の優れた指導と、幼児のころから、あちこちの優れた作曲家を訪れて、指導を受けてきたことの結果である。
 天才というと、必ず出てくるアインシュタイン。学校の成績はあまりよくなかったと言われるが、数学や自然科学の分野では、おそらく、学校の教師が測ることができないような、高いレベルを示していたと思われる。また、好きな分野ばかり勉強していたのだろう。
 モーツァルトの時代には、義務教育などはなかったので、必要なことはすべて父親が中心になって教えた。作曲や演奏、特にイタリア語やラテン語も必要だったから、そうしたことも含めて、きっちり教えたので、作曲家として必要なことはすべて修得することができた。そして、他のことが欠けていることで、問題になるようなこともなかったのである。(ただし、人間関係をつくる資質を充分に培うことがなかったので、就職には苦労し、結局、生涯望むポストを得ることはできなかったのだが。)そうして身につけた基礎を土台に、優れた名曲を次々に創造していったのは、本人の努力以外にはない。
 アインシュタインは、学校教育を受けたし、だから、勉強したいと思わなかったことも学ぶ必要があった。だから、天才の割りには、などとも言われたし、現在なら、成績について、いろいろと注文を受けたかも知れない。しかし、アインシュタイン自身は、自分の興味関心に突き進んでいたのだろう。
 いろいろな創造的な天才の生涯をみると、教育や生活などは様々であるが、ある共通点があることに気づく。それは、若いころから、自分の領域に、可能な時間とエネルギーを集中したということである。義務教育が始まると、天才が出にくくなったなどと言われることがあるが、一面あたっているといえるだろう。もっとも、集団的な努力で創造的な仕事を作り出す力が、社会全体で強化されているともいえるだが。
 昨年だったか、興味深いテレビ番組をみた。現在AI研究の先端をリードしている人の、高校時代の学習の姿が、本人はもちろん、友人や教師によって語られていた。中高一貫の学校であるが、ある時から教室で受ける授業では、ずっとパソコンを操作していたというのである。もちろん、ほとんどは授業で行っている科目とは関係ないことを、やっているわけだ。おそらく、プログラミングなどをしていたのだろう。中学の比較的早い時期から、高校3年の11月くらいまで続いたそうだ。肝心の教師たちは、授業とは関係ないことをしていることは承知していたが、あいつはしょうがない、と放置していたという。12月からの受験勉強で、志望校に合格し、その後第一線の研究者として、企業と協力しながら、様々なAI活用の最先端をいっているそうだ。
柔軟な教育システムが必要
 これではっきりするだろう。要するに、義務的に時間割り当てをして、余計なことをさせていたら、創造的天才は育ちにくいということである。ところで、日本の教育政策は、これとまったく逆のことばかりをしている。
 カリキュラム管理を徹底させ、教科の授業数を確保するように指導したり、学習内容を増やして、窮屈にしたり、教科書検定をして、デジタル教材の発展を阻害したり、数々の管理強化の方向になっている。また、21世紀になって、重視されてきたのが、教育基本法の改訂にも現われていたが、伝統文化と道徳の重視である。創造性というのは、伝統にないものを生みだすことなのだから、これはまったく逆行した政策だ。
 また、今後の創造分野は、ITが中心になると思われるが、学校でのコンピューター教育の実状をみれば、いかに、IT能力の育成に反しているかよくわかる。
 私が聞いた限りでは、学校のコンピューターは専用の教室におかれ、普段は鍵がかかっていて自由に使えない。そして、授業のときだけ、教師が鍵で開けて、終わればまた閉める。こういう状況ではなく、オープンスペースにおかれて、自由に使えるという設置の学校は、私が聞いた学生のなかには一人もいない。私がみたヨーロッパの学校では、ほとんどすべての学校で、コンピューターはオープンであった。このような状態にしている管理者たちは、文科省の役人も含めて、子どもたちのIT能力を向上させることなど考えてもいないのだろう。あるいは、向上させるためには、何が必要か、まったく理解していないのかも知れない。どちらにしても、恐ろしいことだ。

 学校は、特別な興味関心をもっている子どもには、最大限自由にやらせる、たとえ授業中であっても。そのような柔軟性がほしい。もちろん、他の子どもたちからは不平不満が出てくるかも知れない。それは本人と教師が、納得させればよい。学校教育全体が、個々人の能力・資質、興味関心にそった学習活動が可能になるようなシステムになれば、もっとよいだろう。学習指導要領も、そうした柔軟性を保障するように変えていくべきである。当然、画一化された検定教科書などを使用している限り、創造性を阻害することは確実である。
 もちろん、学校教育そのものが、天才を育てる場であるとは考えていない。しかし、天才が育つことを妨害する状況はやめるべきだ。一人の天才といえども、社会全体に大きな幸福、財産をもたらすものだ。だから、天才が育ちやすい環境は必要であるし、それは柔軟なシステムなのだ。柔軟なシステムは、ごく普通の、また障害をもった子どもたちにも、よりよいシステムでもある。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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