『教育』2019.8を読む アクティブ・ラーニング

アクティブ・ラーニングが意識された
きっかけ 「教育のコトバ」という特集2で、新しい教育用語の解説をしている。最初が二宮衆一氏執筆の「アクティブ・ラーニング」である。今では学校全体に広まっている用語だと思われるが、当初は大学の教員の間で問題となった。二宮氏は最初のきっかけが、2008年の中教審答申「学士課程教育の構築にむけて」の紹介であるとするが、この答申では、授業方法の改善で、討論を導入することが書かれているだけで、アクティブ・ラーニングという言葉が使われていたわけでもない。
 日本の大学関係者に、アクティブ・ラーニングという言葉が使われたかどうかは、別として、アクティブ・ラーニングをしなければならないという人たちを多数生んだのは、2010年にNHKで放映された、ハーバード大学のサンデル教授による「白熱教室」の放映だった。実は、NHKは、ずっと前に、「エリートはこうしてつくられる」というハードード大学の教育環境全体を紹介したNHK特集のなかで、同じような授業を紹介していた。もっとも、それは極めて短い断片的なものだったから、特に話題になることはなかったのだろう。サンデル教授の白熱教室は、学期全体の講義をそのまま放映したものであり、(もっとも編集されていたと思われる。)DVDも発売され、you-tubeで見ることもできる。1000人もいる学生たちが、活発に討論する姿に、日本の大学教師たちは、驚いたのだった。もっとも、私はこの授業のDVDを購入し、じっくりみて、感心はしたが、私自身、ずっと大教室での討論を重視する講義をやってきたので、ショックを受けたわけではない。私の講義は、大学の教室の関係で、最大でも400名しか入らないし、学生も多くはないから、多いときで350名程度だったが、けっこう活発な討論をしていた。このことは、以下紹介する。
 二宮氏の文章に戻る。2012年の中教審答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換にむけて」で、アクティブ・ラーニングという言葉が国によって使用されたとする。「白熱教室」の影響がここまで及んだということだろう。その後、学習指導要領にも盛り込まれるような議論が行われたが、結局、「主体的・対話的で深い学び」という用語になって、アクティブ・ラーニングという言葉は学習指導要領では採用されなかった。
アクティブ・ラーニングとは
 ではアクティブ・ラーニングとは何か。溝上慎一氏の定義が紹介されている。「一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」
 大学では、いろいろと「白熱教室」に学んだ試みがなされたようだ。私の大学でも若手教師たちが、「**の白熱教室」などという特別授業を行っていた。長続きしなかったようだが。ただし、大学でこのようなアクティブ・ラーニングが広く実践されているとは思えない。
 学習指導要領で、何故取り込まれなかったのか。ひとつには、既に実施されていたからであるが、二宮氏は、更に以下のような事情があったとする。

 「中教審の議論を経て、『アクティブ・ラーニング』が『主体的・対話的で深い学び』へと姿を変えた最大の理由は、『アクティブ・ラーニング』への形式化への危惧が高まったからである。『アクティブ・ラーニング』ブームとも呼べる状況のもとで、学習内容である教科の知識や技能との関連が吟味されないまま、課題発見や問題解決、協同といった能動的な活動を取り入れる授業が、学校現場に広がっていった。そうしたなかで、形式化に対する危機感が表明され、学習内容である教科の知識や技能の理解と結びついた『深い学び』の必要性が浮かび上がってきたのである。『アクティブ・ラーニング』を『主体的な学び』『対話的な学び』『深い学び』の三つの視点から枠づける試み、とくに『深い学び』を付け加える提起は、『アクティブ・ラーニング』が『活動あって学びなし』の授業に陥らないための修正だった」

 二宮氏は、こうした言葉の言い換えで、問題が改善されたとみているように読めた。言葉の解説としては、特に疑問も感じないが、もし、こうした学習が根付いていると認識しているとするなら、違和感を拭えないのである。
 日本においては、アクティブ・ラーニングという言葉は、大学教師の間で問題にされたことは間違いない。そもそも、小学校などでは、アクティブ・ラーニングなどは、ごく普通にやっていた。そこに、大学の教師が、偉そうに小学校や中学校にアクティブ・ラーニングの概念を持ち込もうとしたという感じが拭えない。ある意味、小学校や中学校は、そんな実践をやってこなかった大学の教師が、ショックをうけて、これが大事だと、持ち込まれて面食らったろうし、そんなこといつもやっているよ、というクールな反応を示した人たちが多いのではなかろうか。
 私は、ここにおける小中学校と大学の歴然とした格差を究明することなしに、アクティブ・ラーニングなどは議論できないと思っている。
 そこで、私がずっとやってきたことを簡単に紹介しよう。
私のアクティブ・ラーニング講義
 私が担当しているのは、教育学関連の講義であるが、講義をするさいに、必要事項としての目標を以下のようにたてていた。
(1)予習をさせる。
(2)講義では、聴くだけではなく、その場で考えさせ、意見を発表させる。
(3)多様な見解がでたら、討論する。
(4)講義をふまえて、自分で課題をたてて、文章としてまとめる。
 予習させるために、プリントを事前にボックスにおいたが、ほとんどの学生は、授業前にとっていくので、予習をする学生は極めて少数だった。それで、教科書を書き、最初は自分で印刷して安価に販売したが、面倒だし、インターネットが普及したので、PDFにして、学期初めに各自ダロンロードさせた。どの程度読んでくるかは不明だが、あまり読んでいるようには思えない。
 発言や討論はそれなりに可能だった。教育学という、誰でも意見をもちやすい科目だったこともあるが、なかなか意見がでないので、発言をした人は加点するというシステムを実施していた。
 文章は、当初はレポート用紙で提出させていたが、お互いに読めるほうがよいということで、掲示板に書くようにしている。そうした授業は、私の定年もあり、今年度で最後になるが、最後まで実施した。
 ごく少数の学生であるが、しっかり考え、きちんと発言できる。また、授業後の掲示板書き込みにしっかりと調べて書く学生もいる。しかし、全体としては、私が望むほどではないし、学年が進んで、より専門的な教科になると、発言などは期待できなくなる。
 つまり、小学校、中学校くらいまでは活発に発表があっても、高校で減少し、大学では求めても、発言する学生はほとんどいなくなってしまう。けっして、伝統的な大学の講義スタイルが影響しているだけとは思えない。
 もっとも高いレベルの教育をする大学で、必要な要素であるアクティブ・ラーニングが困難であるという理由はどこにあるのだろうか。私はずっと考えてきたが、結局よくわからない。
何故大学生は発言しないのか
 学生たちがいうのは、たいていこういうことだ。
 小学校以来、正解を求める授業をずっと受けてきた。小さいころは手をあげて指されて、自分が発表することに、喜びを見いだしていたが、だんだん、正解を常にだすことは難しくなる。考えてもわからないこともでてくる。そして、中学・高校になると、受験を意識するようになると、間違えることに対して、虞れを感じるようになり、発言しなくなるのだ。
 研究者には、他の考えかたをする人もいる。
 小さいころは、先生が質問すると、自分で教えてあげようと思って、一生懸命答える。しかし、そのうち、先生はすべて知っているのに、聞いている。つまり、自分たちを試しているのだ。なら、先生に教える意味なんかないし、試されるのはいやだ。だからいう気持ちが失われていく。
 おそらく、どちらも正しいのだろう。
 もし、そういう理由が的を得ており、にもかかわらず、大学という場で、アクティブ・ラーニングが実現するような、学生たちの姿勢が保持されるようにするためには、「正解主義」の教育をやめるしかないということになる。「主体的」「対話的」「深い」などという言葉を使えば、そういう教育が可能になるわけではない。なぜそれができないのか。システムそものものに問題はないのか。私は、あると思う。
 第二の違和感は、日本の教育の伝統のなかに、アクティブ・ラーニングなどは、たくさんあるし、理論化もされていることが、英語で輸入されるときには、すっかり忘れられるという点である。このブログで昨日の「考える」教育について触れたが、今回、斉藤喜博の授業論を簡単に紹介しよう。
 斉藤喜博の指導する教室、斉藤喜博によって育てられた教師の授業では、活発な討論がなされるのが普通だ。国語に関していえば、その原因は、「正解のない発問をする」ことにある。知識に関わることは、斉藤喜博はほとんど質問せずに、自分で説明する。考える余地のある内容について、多くは選択肢を示して質問する。有名な森のなかを歩いていて、出口がみえた。その出口は、森のなかなのか、境なのか、あるいは森の外なのか。斉藤喜博は、それぞれの見方があるのだから、どれも正解だとする。この発問は、別に正解を示すためのものではなく、状況を考えさせるためなのである。「正解のない発問」という討論手法は、昨日紹介した安井俊夫のものでもある。
正解主義の教育をやめる
 問題なのは、こうした授業は、簡単にできることではないということである。「正解のない問い」を、教師が事前にきっちり考えておく必要があるのだ。教師自身が、教材を多様に解釈できる力がなければ、そのような問いを考えだすことはできないのである。おそらく、正解主義の発問に勢いよく答えていた小さい子どもたちが、やがて、だんだん間違いを虞れて発言しなくなる。そして、大学になるとそれが習性にまでなっているということなのだろう。
 そういう学生たちも、少人数で、自由に話せる場では、活発に意見をだすのだから、やはり、話す力や姿勢がないわけではないのだ。
 数学や理科は、もちろん正解があるが、それでも理科については、昨日書いたように、討論を組織する確実な方法はある。それ以外の教科で、「正解主義を捨てる」ことを意識しないアクティブ・ラーニング論議は、実現できない空想論に過ぎない。
 そのように考えると、実は小学校で行われているアクティブ・ラーニングも、「主体的・対話的・深い学び」になっているかは、かなり疑問に思えてくる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です