五十嵐顕考察2 教育費1

 五十嵐顕氏は、教育費の講義を担当していたため、教育費とは何かを突き詰めて考えていた。そして、教育費が貨幣の形をとることに、つよい拘りをもって、そこから出発していたように思われる。
 五十嵐論による教育費の分類は、
・個別分散的
・社会的に組織された教育費
・国家によって組織された教育費
という三つの組織形態によるものである。形としてはすっきりしているが、私は、この分類は、教育費の「教育学的分析」にはあまり有効ではないように、ずっと思ってきた。確かに、そうした分類は、外見的に分かりやすいし、統計的にも処理しやすいに違いない。しかし、形式と量の相違を示すだけで、それが教育にとって、どのような意味をもつかは、明確に示すことができないのではないかと思うのである。

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ノート『天災から日本史を読みなおす-先人に学ぶ防災』磯田道史(中公新書)

 イタリアの歴史哲学者クローチェの有名な言葉に「あらゆる歴史は現代史である」というのがある。本書は、歴史書でありながら、現代史、あるいは未来史ですらあると感じさせる書物である。著者である磯田氏自身が、将来起きるかも知れない自然災害に、どう対処したらよいのか、それを今から準備するために必要なことを、歴史から学ぶという視点を貫いている。しかも、歴史的文書を丁寧に調査し、吟味しながら、当時の災害の起こり方、人々の対処のよかったこと、まずかったことを整理している。そして、ある災害には、こうしたことが必要だという教訓を、説得的に引き出している。最近、これほど役に立った感じを受けた本はなかった。

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高齢者は集団自決を? 成田祐輔氏への疑問

 最近話題の成田祐輔氏が、あちこちで「高齢者の集団自決」が必要だという主張をしているということを、その批判文で知った。特別に話題になったのは今年かららしいが、以前からの主張のようだ。最初に読んだのは、内田樹「『高齢者の集団自決』の提言 日本の国運の衰退の解決にはならない」〈AERA〉
であり、驚いて他の文章も探し、「成田悠輔氏「高齢者は集団自決」発言を“例え話”と笑っていられない理由」窪田順生を読んだ。
 いずれも、ヒトラーとユダヤ人撲滅などとひっかけて批判したものだ。
 では、本人はどう言っているのかと探したところ、abemaTVで語っていることが多いらしいが、youtubeにも出ているので、次のものをみた。
 
 私は、成田氏を著書と羽鳥モーニングショーにでているときしか知らないので、こうした過激な主張は知らなかったので、少々驚いた。

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チェロのトラブル 適切な湿度の必要性

 今年に入ったころからだろうか、どうもチェロの鳴りが悪くなったような気がしていた。これは昨年夏あたりから、左手の痛みが出て、そのことによって、うまく楽器が扱えなくなっているのかと思っていた。
 チェロをやったことがある人はわかると思うが、チェロは弦が太いので、かなり力がいる。そして、練習をあまりしない状態から、久しぶりに弾くと、腕や手が痛くなるものだ。しかし、この時の痛さは、逆で、毎日練習しているのに、弾き始めると、それだけ痛くなるのだ。いよいよ歳なのかという思いと、ひょっとしたら、コロナワクチンの副作用だろうかという思いもよぎった。私はまったく副作用がなかったのだが、どうもワクチンを打った左手だけが痛い。そして、それが楽器の鳴りに影響しているのかなどと思っていたわけだ。昨年の7月に4回目、今年の1月初めに5回目のワクチン接種をしたので、ありうるとは思う。

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再論 学校教育から何を削るか18 教師の懲戒権

 学校教育法には、教師の懲戒権が規定されている。ただ、そのことによって、教師が具体的な仕事を押しつけられているわけではない。懲戒権を発動しない実践は可能であり、その場合、教師の労働が増大することはない。しかし、多かれ少なかれ、教師は法で規定されている懲戒権を行使しながら、授業をしている。そして、そのことによって、付随的な仕事が付加されてくるという仕組みになっている。
 こうした状況に対して、私は常々「懲戒権」は、学校の教職員としては校長のみに付与されるべきであり、一般教師にとっては、余計な規定だと思っている。教育は、あくまでも非権力的な営みであって、権力は不要である。もちろん、組織である以上、権力が必要となる場面はあるが、その権力は校長に一元化していること、逆にいえば、校長がしっかりと懲戒権を適切に行使すれば、教師は、懲戒などという教育的ではない要素を、実践のなかに持ち込まなくて済むようになり、より教育らしい実践が可能になるのではないだろうか。
 それは、結局、教師の過剰労働を軽減することにもなる。では、より詳しくみていこう。

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五十嵐顕研究1 はじめるにあたって

 ある事情から、五十嵐顕研究をする必要に迫られた。五十嵐顕といっても、最近の若い世代には、ほとんど知られていないと思われるが、私が学生だったときの研究室の教授であった。私自身は、もう一人の教授であった持田栄一教授を指導教官としていたが、五十嵐教授にも指導を受け、院生としては、五十嵐研のひとたちのほうが、ずっと親しかった。
 もっとも、指導を受けたといっても、持田教授にしても同様だが、当時はまだ大学紛争の余韻がさめない時期ということもあったのか、両教授は極めて多忙で、連日のように講演に走りまわり、雑誌に原稿を書き、更に研究もしていたから、授業などは、滅多に行なわれなかった。特に大学院の演習などは、院生が勝手に、あるいは自主的に運営しており、たまに教授が参加するという状況だった。最近のように、授業がきちんと行なわれ、指導も丁寧になされる、などということは、むしろ例外的だったのではなかろうか。特に、両教授のように有名人は、社会的活動のほうが中心だったのである。

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裁判記録、紙の保存が原則か

 神戸の連続児童殺傷事件の裁判記録が、廃棄されていたという報道を、記憶している人も多いだろう。そのときにもブログに書いたと思うが、「99.9%消える司法文書「保存場所と人の確保を」 青山学院大元教授の塚原英治さん、デジタル化は「閲覧の手段」に」(元青山学院大法科大学院教授の塚原英治弁護士 神戸新聞)という記事がでて、紙の原本を残すのが大事で、そのための場所と職員を確保することが必要だ、という主張をしている。多いに疑問である。
 
 塚原氏は、デジタルではなく、紙で残す理由を2点述べている。
・スキャンした文書では、原本と同一か確認できない。
・デジタル化は簡単ではない。

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森元首相、鈴木宗男氏のあきれたロシア応援発言

 ウクライナ戦線は膠着状態が続いているが、2月3月になると大きな戦闘が行なわれると予想されている。そうしたなか、森元首相が、「ロシアが負けることはない」と述べ、更に鈴木宗男氏が追随する発言を繰りかえしている。森氏の発言の紹介は、「森元首相「ロシアが負けることは考えられない」発言に大ブーイング「立ち位置が不適切」「さすがプーチンのお友達」…官房副長官も “反撃”」
であり、鈴木氏は、「鈴木宗男氏 森喜朗元首相に同調「私も国力から見てロシアが負けることはないと考える」」
である。
 ふたりは、ともに北方領土解決のために努力した事実はあり、プーチンともパイプをもっている。おそらく、今でもそうしたプーチンとの友好的関係を土台に発言しているのだろうが、状況の変化を認識できないのか、もともと、プーチンとの交渉自体か砂上の楼閣だったのか。おそらく、両方だろう。それはともかく、両氏が今回述べたことは、以下のように整理できる。
・ロシアは負けないし、もし負けたとしたら、大変なことになる。
・せっかく日露の改善に努力して積み立ててきたのに、ウクライナにこんなに肩入れしていいのか。(以上森)
・プーチンだけ批判するのは間違いで、ゼレンスキーも国民を苦しめている。
・ウクライナとロシアのどちらが日本にとって重要なのか。(ロシアだという含み)

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再論 学校教育から何を削るか17 入学試験制度3

 最期に、入試を廃止することなどできるのだろうかという、誰もが感じる疑問について考えてみよう。
 私が学生時代、「教育法」の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、できる限り早く廃止したいですね。」と講義で述べたことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。しかし、大学に勤めるようになり、研究の関心がオランダに向くようになって、オランダの教育を研究するようになると、そこには、入学試験制度そのものが存在しないことがわかった。別にオランダだけではない。ドイツにもフランスにもないのだ。(フランスはグランゼコールという超エリートの高等専門学校には入試がある。)中でも、オランダは、学校を当人が選べるという点で、際立っていた。もちろん、ハードルはある。尤も、オランダに限らず、入学試験制度が一般的に存在しない国でも、ある種の学校には、入学試験があることもわかった。それは、芸術系の学校である。芸術家を養成する学校では、もちろん、芸術的才能がないと話にならないから、当然、芸術的才能の程度を調べる試験を課す。ただ、それは入学試験とは呼ばれず、オーディションと呼ばれていた。実態は、入学試験であるが。

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読書ノート『シン日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』松竹伸幸(文春新書)2

 今回は、民主主義における基本的人権と組織の権利について考察してみたい。藤田氏が、著作や記者会見で公表する前に、何故党内で意見を述べなかったのかと批判していることは、前回紹介した。実際に松竹氏が、党内で意見を述べていたかどうかについては、よくわからない。松竹氏の本書において、その点は触れられていない。実際には、身近なひとたちに言っていただろうと思うが、少なくとも党本部に対して意見具申はしていなかったという前提で、考えてみたい。
 お断りしておくと、私は共産党の人間ではなく、内部や規約のことは知らない。こうした本や記事に引用されている限りで知っているだけである。だから、現実の党への提言などをするつもりで書いているわけではなく、あくまでも現在の日本における組織のあるべき姿を、考えようとしているだけである。
 
 前回引用した規約3条の「民主的な議論をつくし」と「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」のふたつをどのように、この事例で考えるか。

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