丸山は、ヨーロッパの指揮者は、歌劇場のポストを歴任して、認められることでだんだん上級クラスの歌劇場に進み、一流の指揮者として認知されると指摘している。そして、その代表としてカラヤン、ベーム、フルトヴェングラーをあげているが、フルトヴェングラーはこうした経歴をたどった指揮者ではないし、また、オペラ指揮者とはいえない。ごく若い頃に歌劇場の指揮者であったが、30代にしてベルリンフィルの常任指揮者に選ばれたあとは、例外的な時期(つまりナチスとの関係でベルリンの歌劇場の指揮者を務めたことはあるが)を除いて、歌劇場の指揮者になることはなかった。フルトヴェングラーのオペラは、音楽祭やレコーディング、演奏会形式での上演にほぼ限られている。フルトヴェングラーは偉大な指揮者だから、オペラの録音も優れた演奏だということになっているが、私は、フルトヴェングラーのオペラ録音は、それほど優れたものではないと感じている。生粋のオペラ指揮者であったカラヤンと比べるとその差ははっきりしている。
ベートーヴェンのフィデリオは、あまり歌謡的なオペラではなく、器楽的な音楽である。だから、音楽そのものがドラマチックに劇と結びつくようなところが少ないのだが、ドン・ピサロがフロレスタン殺害を命じ、レオノーラがピストルを突きつけて、妻であることを名乗り、殺害を阻止する場面は、極めて劇的な音楽になっている。カラヤンの演奏で聴くと、ここは本当に手に汗にぎるような強烈な表現になっているが、フルトヴェングラーの演奏だと、何かぬるいのである。ドラマティックな表現に優れているというフルトヴェングラーも、それはあくまで交響曲などの表現で、オペラではそれがあまり発揮できないように感じる。ウォルター・レッグが、フィガロと魔笛を、フルトヴェングラーがザルツブルグ音楽祭で公演していた歌手を使って、カラヤンに録音させたのは、オペラ指揮に関しては、カラヤンのほうが優れていると考えたからだと思うのである。この件でフルトヴェングラーのカラヤン嫌いは、爆発的に強烈なものになったのだが。
この指揮者としての形成だが、最近はコンクールが盛んになったために、歌劇場でしっかり鍛えられることなく、コンサート指揮者として人気がでてしまうので、オペラが苦手な指揮者も増えている。その典型が小沢征爾だろう。晩年ウィーンの音楽監督になるなど、オペラに打ち込んだが、オペラの決定的名演の録音・録画を残すことはできなかった。しかし、日本でもオペラ上演が普通になった時期に学んだ世代では、オペラの得意な指揮者も出てきている。
さて、丸山の文章に非常に面白い話が紹介されている。ドイツ駐在の日本人のある外交官が、ローエングリンを鑑賞して帰宅途中で、夜の女に話しかけられたというのである。「あなたはどこからきたの」と。日本人だから、そういう興味をもったのだろう。それに対して外交官は「そういう問いをしてはいけない」と答えたというのだ。女は「ローエングリンをみてきたのね」と笑って答えた。
この話のおかしさがこれでわかれば、かなりのオペラ通だろう。
丸山は、この女性がそういう職業でありながら、高い教養をもっているのか、あるいは、ドイツではこうした人でもこの程度のことを熟知しているのか、とふたつの可能性を指摘しているが、彼の回答は書いていない。