オペラは死んだのか?

 車田和寿氏のyoutubeで、「オペラは死んだのか?」というテーマの映像がでた。大変興味のあるテーマなので、早速みた。
 実は、オペラは死んだということは、これまでにも、いろいろなひとによって言われており、それぞれまったく違う角度から、そうした問題を扱っていた。
 
 第一は、新しく魅力的で、大衆的な人気を獲得するオペラが作曲されなくなった、という意味で言われる。たとえば、最後の人気オペラは、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」で、100年も前だ。それ以降、オペラはたくさんつくられたが、たとえば、人々が自然に口ずさむようなメロディーをもっていて、人気のあるオペラは作曲されていないという。私もそれには同意する。「ボツェック」は高く評価されているが、大衆的人気があるとはとうてい思えないし、その一節が自然にでてきて、口ずさむなどということはないだろう。

 大衆的な人気を獲得しているオペラは、たとえ初演は失敗しても、すぐに人気がでて、あちこちで上演されるというのが普通だ。そして、多くの場合は、初演ですぐに評判になって、広まっている。ロッシーニの「セビリアの理髪師」は、すぐにあちこちで上演され、ベートーヴェンも絶賛している。
 だから、戦後でも、たくさんのオペラが作曲されているし、日本人のオペラもあるが、頻繁に上演されているという話は聞いたことがない。やはり、大衆的に人気を獲得したオペラは「バラの騎士」が最後だというのは、間違いないところだろう。100年も人気オペラが創作されないのは、オペラが死んだ証拠なのか。
 
 第二は、オペラに代わる大衆的「劇」の上演形態が生まれたために、オペラの人気は奪われてしまったという説である。典型的には映画だ。ヨーロッパで、おそらく、20世紀初頭までのオペラは、今の人々が映画を見にいくように、娯楽として、オペラを聴きにいったのだろう。しかし、特に戦後になると、映画は大きく普及し、そして、ある程度はテレビにとって代わられているが、より安い料金で、しかも、リアルな映像で劇を楽しめる。表現力でいえば、オペラは映画にはとうていかなわない。だから、オペラは、既に死んだ芸術だというわけだ。車田氏によれば、マリア・カラスはそういう見解を発表していたそうだ。この説でいうと、映画が出てきた時期と、最後のオペラの新作が現れなくなった時期は、だいたいつながっている。また、ヨーロッパの戦争で、アメリカに亡命した作曲家たちは、多くがオペラではなく、映画音楽の作曲をになうようになっていく。コーンゴルドなどが代表例だ。
 
 そして、第三は、新作オペラが現れないこととも関連するが、オペラ上演の中心的話題が「演奏」ではなく、「演出」に偏り、演劇畑の演出家が、オペラ演出を手がけるようになっている。そして、オペラ歌手のことを知らないまま、かなり激しい動きを要求したり、あるいは、経費の問題もあるのだろうが、原作の筋を勝手に変更して、まるで違う劇にしてしまうようなことが、かなり生じている。特に、音楽祭で上演されるオペラに、その傾向が強い。車田氏のyoutubeの映像は、この点を中心に論じている。有名な歌手のバイクルのインタビューを紹介している。バイクルも、オペラは死んだと語っていたのだそうで、そのとき、20代の音楽のことなど知らない若造が、われわれに、ここはこうしろ、なんて命令するんだ、と演出家を批判しているのだそうだ。車田も、最近の原作無視の演出を批判しており、歌手として重要な筋肉の使い方などを無視して、妙な動作をとって歌わせると、そのときには、歌えるとしても、長い目でみると、身体の構造が変わって、歌のレベルが下がってくるのだと、車田氏は指摘している。
 無理な姿勢だけではなく、本当に理解に苦しむ演出は多数ある。バイロイトの「ローエングリン」で、兵士たちがみなネズミの格好をして出てきたときには、ものすごい騒動になった。ザルツブルグ音楽祭の「こうもり」は、明るく、陽気な喜劇が、暗く、陰惨な復讐劇になっていて、なぜこんなことをするのだろうと、二度と見る気がしなかった。
 
 私の知る限り、指揮者や歌手で、このような奇妙な演出を積極的に支持するひとはいない。指揮者や歌手が、早い段階で、演出家と細かい打ち合わせをすることは、あまりないらしく、実際に演技をともなう練習にはいったときには、修正させることができなくなっている、ということも少なくないようだ。逆に、アバドのように、最初から演出家と打ち合わせて、舞台をつくっていこうとする指揮者だと、新機軸はあっても、奇妙な演出は、ほとんどない。
 
 新演出が、話題つくりだけではなく、経費節減が理由であることは明らかだから、それなら、そもそも演技そのものをやめてしまえばいいではないか、という「演奏会形式」の上演も増えている。考えてみると、私が最近実際にでかけたオペラ上演は、演奏会形式だった。「トリスタンとイゾルデ」「オテロ」、そして、「サロメ」だ。オペラ上演は非常にコストがかかるものだが、演奏会形式だと、大道具小道具や演出、演技指導などがなくなるから、かなりの経費節約になる。そして、無理な姿勢で歌うことがないから、歌手も安心して歌唱に専念できる。私は、演奏会形式大賛成だ。
 オペラには、音楽、劇というふたつの要素があるが、魅力の中心は音楽にあることは、明らかだ。ドラマを変えてしまう公演はあるが、ドラマをそのままにして、音楽をところどころ編曲してしまう公演は、少なくとも現在はない。だから、演技はなくても、オペラの魅力は十分に味わうことができる。「トリスタンとイゾルデ」の録音を終えたフルトヴェングラーが、今後は、このオペラは、オラトリオのように演奏するのがいいのかも知れない、といったそうだ。要するに、演奏会形式ということだ。純粋に音楽に集中できる。「魔笛」で、夜の女王が、高いところに立って、あの強烈なアリアを歌うのを、何度も聴いたが、もし、ふらっとして落ちたらどうするんだ、といつもひやひやしたものだ。オペラ上演では、怪我をするような事故は、めずらしくないのだ。動きが激しくなれば、その危険は高まる。やってるほうも、見る方も不安になる。
 もし、オペラが死にそうになったら、ミサ曲やレクイエムのように、演奏会レパートリーになって生き延びればいいのではないか。それより、天才的な作曲家が現れて、名作とされるオペラを作曲してほしいと、多くのオペラファンは願っているに違いない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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