ゆとり教育は間違っていたのか

 伊東乾が「「ゆとり教育」の失敗をチャットGPTで乗り越えろ!」という文章を書いている。
 簡単な趣旨は、ゆとり教育は、有馬朗人が、自分が学んだ武蔵高等学校の経験を元に考えだしたものだが、山川健次郎が生徒たちと生活をともにして、教育に心血を注いだ教育とは、まるで違うもので、成功するはずがなかったし、今ではゆとり教育が成功したと考えている人は皆無だろう。しかし、その遅れを取り戻すために、ChatGPTを教育の場で有効に使うべきだ、というものだ。
 本筋ではないが、ゆとり教育によって、ノーベル賞を受賞できるような人材は現れなくなるだろうというようなことも書いている。ノーベル賞を受賞した人は、戦前生まれかせいぜい戦後間もなく生まれたひとたちであって、それ以降は、ほとんど生まれていないということもいっている。ただ、この点での伊東氏の論は、まったく賛成できない。戦前の教育と戦後しばらくの教育は、教育的性格としては、正反対、あるいは対立的ともいえるほど異なるものだったのだから、このふたつをくくって、ゆとり教育と対比させることは、まったく歴史的事実と異なっている。むしろ、戦後の教育(1940年代後半)の教育は、ゆとり教育と近いものがあったといえるのである。

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我がオーケストラの演奏会

 今日は、私が所属する市民オケ、松戸シティフィルハーモニーのファミリー・コンサートだった。ということで、いつものようなブログを書く時間がないので、演奏会のことを書きたい。
 曲目は、ウェーバー作曲「舞踏への勧誘」、ビゼー作曲「組曲ローマ」、そして、ブラームスの交響曲2番だった。
 クラシック音楽は、作曲家が創作した楽譜通りに演奏するのが、大原則なので、編曲は滅多に演奏されない。モーツァルトがヘンデルのメサイアを編曲したバージョンがあるが、CD1、2しかでていないし、実際の舞台で演奏されることは、現在ではほとんどないに違いない。モーツァルトが編曲しても、こうなのだから、やはり、編曲ものは異端として扱われる。ところが、2曲だけ、むしろ原曲よりも有名で、頻繁に演奏されるのが、この「舞踏への勧誘」と、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲の「展覧会の絵」だ。ともに原曲がピアノ曲、編曲者が有名な作曲家であり、かつすぐれたオーケストレーションの名人である点が共通している。「舞踏への勧誘」は、ベルリオーズの編曲だ。いかにもロマン派の曲らしく、舞踏会で男性が女性を踊りに誘い、若干のやりとりのあと、おどりだす、そして、最後に挨拶して終わるというものだ。男性がチェロに割り当てられ、我がオーケストラには、チェロの名手がいるので、ここは実に、後ろで聴いていてもほれぼれした。

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五十嵐顕考察14 勤評闘争2

(アップしていたと思っていたために3をアップしたが、まだだったので、アップする)
 愛媛県は、財政再建のために、教師の給与をカットすることにしたが、一律カットではなく、カットする者としない者を分けることにした。表向きは、当然優秀な教師とそうでない教師、つまり、教師として不十分である者をカットする、ということだろうが、実際には、組合員を狙い撃ちにして、組合の攻撃に使ったのである。これは、当事者たちには、疑いのないものとして理解されたのだろう。
 実は、私が中学時代、生徒会の役員をしていたが、顧問の教師が二人いて、二人は、役員の生徒たちがいる前でも、いつでも異なる意見を述べて、生徒たちを混乱させていた。そのうちに、われわれは、独自に考えるようになったという意味では、よかったのだが。そのひとつがスポーツ大会で、例年ソフトボールとバレーボールで、全クラス対抗のスポーツ大会をやっていたのだが、私たちが役員の年は、教師たちから、グランドと時間の関係で、この競技はできないと言われて、では何をやるかと、散々議論した結果ドッチボール大会にしようということになった。ところが、有力教師と言われる人が、猛反対しているという噂が入ってきた。ドッチボールなど小学生の競技だというわけだ。そこで、大きな本屋にいって、ドッチボールの本を買ってきて研究したところ、大人の競技としても認められていることを知り、けっこう不満もあったが実施した。猛反対した教師のクラスが優勝したので、ご満悦だったという話をきいた。

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HIMARIを聴く

 吉村妃鞠が、N響の定期演奏会で演奏したことを、youtube動画をみて知ったので、早速聴いてみた。HIMARI となっているので、既に国際的に活躍していることであり、五嶋みどりが midori として活動していることに倣ったのかも知れない。確かに世界中で活躍しているのだから、吉村妃鞠よりは、親しまれるに違いない。
 熱心に追いかけているわけではないので、久しぶりに聴くのだが、音がきれいであることにびっくりした。以前の、本当にまだ小さい子どもで、かなり小さいバイオリンをつかっているときには、こんな小さい楽器で、あのような音がでるのかとびっくりしたけれども、それでもやはり、大人のプロソリストの音ではなかったが、今回のN響との演奏では、完全に大人の美しい響きだった。まだかなり身体は小さいし、フルサイズではないのだろうが、コメントによるとストラディバリウスだというが、ウィキペディア情報ではアマティで、やはり分数バイリオンということだ。私には、正確なところはわからないが、本当に美しい音だった。しかし、演奏は、圧倒的にすばらしいとまではいえないものを感じた。というのは、前に聴いたコンクール時のものよりは、ずっと大人しく、お行儀のよい演奏なのだ。そして、オーケストラ伴奏よりも、ピアノ伴奏のほうが、すばらしい演奏になっていることが多いように思われた。

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五十嵐顕考察15 勤評闘争3

勤務評定の最初の導入は、財政問題であったが、それを全国に拡大させたのは、明らかに、戦後改革の修正をする上で、反対をすることが多かった日教組を弱体化させることが目的であったことは、疑いようがない。勤評の施行と、戦後改革を修正する諸改革が行われたのは、ずっと並行していた。
 五十嵐氏は、具体的に、制度面で、教育委員の任命制、文部大臣による府県教育長の承認制、教材の届出、学校管理規則の制定、地教委の一斉設置、教育二法(教師の政治活動の制限)教育内容にかかわって、道徳教育の特設、学習指導要領の全面的改訂(試案から拘束的)高校のコース制などをあげている。
 つまり、管理・統治の強化と教育内容を変更を実行するために、反対運動の中心である日教組を潰すために、勤務評定を導入したという位置付けである。

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五十嵐顕考察13 勤評闘争1

 勤評問題は、戦後教育行政史、教育運動史のなかで、際立って対立が激しく、そして、長く問題となっているひとつだ。正確にいえば、現在でも、社会的コンセンサスにいたっていないといえる。
 単純にいえば、労働し、その対価が支払われている以上、労働に対する評価があるのはごく当たり前のことである。労働の成果がよければ、昇給したり昇格したりする。それも、ごく普通のことだ。だから、教師に対して勤務評定をするのも、当たり前のことだと思われるのだ。
 しかし、少しでも掘り下げていくと、教師の労働を評価することは、簡単にはできないことだとわかる。教師の労働、つまり、教師の教授活動や生活指導の成績がよいことは、どこで判断するのだろうか。そして、誰が判断するのだろうか。スポーツなら、決められた基準によって表れる数値がある。フィギュアスケートなどのように、主観的な要素が入り込んでいる種目でも、判断基準は明示されているし、厳しい審査にパスした審査員が審査し、その結果は通常公開される。もちろん、演技を実際に見て、ただちに判断する。だから、基準から著しく離れたような評価をすれば、問題になる。ときとして、判定が社会問題になることはあるが、それはごく稀な現象であり、通常は、明確な勝敗がつき、あるいは、専門の審査員が基準にしたがって審査して順位がつく。

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こっけいなプーチン演説

 今日、急に目が真っ赤になっていることに気づき、さすがに、2年ぶりに医者のところにいった。結膜下出血ということで、医者からもらったパンフには、たいしたことないと書かれていた。一応薬をくれたから、それなりの改善の必要はあるのだろう。というわけで、残念なことに、プーチンの演説をリアルタイムで聞くことができなかった。今までにでているyoutubeでは、簡単な抜粋をみただけだ。しかし、大体のことはわかった。
 ウクライナ側の視点による多少偏った見方になるのだろうが、こっけいな演説だった。西側が侵略戦争をしかけているような前提で、侵略する者は敗北するなどといっていたようだが、侵略者を事実通りに認定すれば、たしかにプーチンのいう通りだ。そして、西側は、ロシアを崩壊させようと思っているのだ、といっていたが、当初はそう思った西側のひとたちはあまりいなかったろうが、現在では、ロシア自体の崩壊を望んでいる人は、多くなっているに違いない。ここまで、酷いことをすれば、今後長期間にわたって、こうした侵略戦争をできなくなるには、ロシアという世界一広大な面積をもつ国家が、常識的な面積の国家に分裂して、ソ連の後継者としての国連安全保障理事会の常任理事国が存在しなくなることが、多くの人によって期待されているからである。私もそう望んでいる。もし、そうならなければ、国連は事実上死に体となってしまうだろう。既にそうなっていると考えている人もいるだろうし。そして、西側にロシアの崩壊を望むようにさせたのは、プーチンの侵略行為そのものだ。こっけいな演説といった所以だ。

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「鬼平犯科帳」密偵たちの死4 伊三次

 死んだ密偵として、「鬼平犯科帳」をよく知る人なら、誰もが、何故伊三次がでてこないのか、と思ったに違いない。やはり、伊三次は最後にとりあげる密偵だ。伊三次は、小説でも、ドラマでも、人気のある人物で、伊三次を演じた三浦浩一は、役者人生の半分は、伊三次を演じていたといって、この役を自分の宝と思っていると語っていた。役をもらったときには、まだ原作を読んでおらず、友人から、伊三次は「五月闇」で死んでしまうと教えられ、プロデューサーに「五月闇」はドラマの最後にしてほしいと頼んだのだそうだ。しかし、6シリーズで演じてしまったので、その後は、でないつもりでいたところ、再度出演依頼があったが、断る三浦に、「まだ伊三次が生きていたときの話」というナレーションをいれることで、オーケーしたという。シャーロック・ホームズを殺してしまったコナン・ドイルに、抗議が殺到した、というほどではないだろうが、かなり似たような反応があったのかも知れない。

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プリゴジンはバフムトを去るのか

 ロシアの傭兵組織であるワグネルの創設者であり、指導者のプリゴジンが、砲弾が充分に供給されていないことを、以前から述べ、国防相等を非難してきたが、ついに、このままでは闘いを継続することができないといいだし、砲弾の供給がなければ、5月10日にバフムトを撤退する、と公言した。バフムトの戦場近くであると称する場所で、死体が転がっている状況を背景に、彼らは少し前の戦闘で死んだ、弾薬がないからだ、と激怒している映像がネットで出回っている。テレビでも放映されているということだ。
 もちろん、この映像をそのまま受け取るわけにはいかない。バフムトの戦場で撮影しているといっても、本当かどうかはわからない。それに本当の死体かどうかも、確証があるわけでもない。

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高い目標をもつこと(大谷とエル・システマ)

 今日は、普段雑多に考えていることについて書く。
 大谷翔平は、誰にも大きな驚きを与える存在だが、私が最も驚くのは、生活のすべてを野球の向上のために使い、常識的な付き合いすら断ってしまうほどの、ストイックさである。日ハムの新人としてはいったときに、先輩の食事の誘いを断ったとか、それは今年ヌートバーと再開して、食事に誘われたときにも、「寝るから」といって断ったというように、一貫した姿勢であり、ニューヨークで試合のためにいっても、まったく街にでないので、街の印象もないという徹底ぶりだ。それだけではなく、食事も、完全に野球のためのものにして、定期的に血液検査をし、それに基づいて栄養を考えるのだそうだ。味はほとんど気にしないとか。練習方法も、おそらく専門のスタッフがいるのだろうが、二刀流の実現するための必要なトレーニングを開発し、無駄なことはしないのだそうだ。

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