犯罪者が犯行前に警察に相談

 最近起きた事件のなかで、犯人が事前に、警察に相談していたという事例が、複数あるようだ。とくに、小学校に軽トラックでつっこみ、数名を負傷させた事件は、自分は最近おかしくなっている、と警察に相談していたと、はっきり報道されている。こうしたことをどう考えるべきなのだろうか。もちろん、これは、犯行予告とか、警察への挑戦というような話ではなく、本人が、どうやら自分がおかしくなっており、犯罪を実行しそうだ、だがそれはまずい、という思いから、警察に相談してとめてもらおうという意識だったと、一応考えておこう。
 これは加害者がわからだが、被害者側からの事前の警察への相談は、多数ある。実際に、警察がなんらかの対策をしなければならないことになっているものもある。危険なストーカー行為などに対するものだ。
 事前に相談しているわけではないが、死刑になるために、誰でもいいから殺したかった、という無差別殺人なども、過去何件か報道されている。アメリカで頻発する銃乱射事件などは、犯人はほぼ確実にその場で射殺されており、実行犯もそのことを十分に知っているはずだから、ある意味、より直接的な死刑になるための無差別殺人とも考えられる余地がある。

 日本に限らず、社会生活が困難になり、刑務所での生活保障をえるために、あえて犯罪をおかして捕まり、刑務所にはいることを繰り返すひとたちがいるが、こうしたひとたちの共通点は、一般人と同じように、一般社会で生活することを、困難だと感じている、という点である。だから、希望者は、刑務所にいれてあげればいい、死刑にしてあげればいい、などということは、もちろんできないことである。しかし、事前に本人が自覚しており、なんらかの形で救いを求めている場合に、何もできないシステムではなく、なんらかの手段がとれるほうがいいのではないかと思うのである。
 
 かつては、民事不介入という原則があり、私人間のトラブルに、警察は介入しないという原則があった。原則は今でもあるのだろう。もちろん、そのトラブルの結果として、犯罪がおこなわれた場合には、警察は当然捜査を始めるが、それは犯罪が起きたあとということである。しかし、単なるトラブルではなく、犯罪がかなりの高い確率で起きそうだというとき、それが加害者がわの不安であれ、被害者側の恐怖であれ、なんらかの、警察あるいは他の機関の有効な対応・介入があったほうが、社会として安心であるし、また、実際に犯罪がおきてしまった事後処理よりも、金銭的にも、また費やされる人的エネルギーとしても、事前介入のほうが軽くて済むと考えられる。やはり、なんらかの対応が必要ではないだろうか。
 ストーカー対策は、おもに被害を恐れる者が、加害を加えそうな人物を警察に訴え、警察が、なんらかの形で加害可能性のある人物に警告をあたえるというシステムである。しかし、実際に、警察がその人物について見張ることをするわけではないし、また被害を受けそうな人物の護衛にあたるわけでもない。つまりは、加害可能性人物の自制心に頼っているのであり、その人物が、警察の警告などまったく気にしないのであれば、効果はない。警察の警告がいかされなかった事例は、少なくないのである。被害者の要請で対応が行われる加害者対策は、しかし、ここでの主要な論点ではない。考えたいのは、加害をしてしまうのではないかと恐れている者、そしてそのことを相談したいと思っている人への対応である。
 暴力性をともなった精神疾患の人を、犯罪をさせないように事前に拘束する、いわゆる「予防拘禁」はよく議論になるが、現在社会では認められることはないだろう。というのは、明確な意思表示ができない人の予防拘禁であるから、当然当人の意思を無視しておこなわれることになる。つまり、本人の意思を無視して、事前の拘束ないし類似対応をすることはできないが、本人の意思がある場合、つまり、加害者となりそうな本人が、警察に申し出る場合には、事情は違うし、効果的な対応は、もっととれそうである。
 
 では、健常者が、自分の意思で、それを求めたときにはどうなるのだろうか。もちろん、病人として診断や治療を求めることは、現在の制度でもおこなわれているが、そうした病気の診断や治療ということではなく、自分はおかしい、と犯罪を実行しそうになる自分をおさえるためだろう、と警察に事前に相談した人が、警察に相手にされず、結果数日後に車で子どもたちのところに突っ込んでしまうという、極めて悲惨な行動をしてしまった例では、もし、そんなに不安なら、とにかく、警察の施設におき、医者の診断やカウンセラーの相談をうける、というようなことがおこなわれていれば、もしかしたら、何もなかった可能性はある。
 日本の歴史には、興味深い、国際的にも評価されている施設があった。長谷川平蔵が設立・運営した人足寄場は、無宿人や犯罪者などを収容し、職業訓練をおこなう場であった。当初は無宿者、つまり、定住もしていないし、定職もない者を収容したが、次第に犯罪者が多くなった。自ら申し出る機関ではなかったから、そのまま参考になるわけではないが、このような場を、現代の実情にあうように設計すれば、上記のような自身に不安をもつ人間の対策になるのではないだろうか。たとえば、次のような原則を守る。
・自分自身の意思ではいる。
・行動は制約される。
・自分にあう仕事をしたり、あるいは仕事の訓練をうける。仕事に対価がえられた場合に、一定の割合で受け取る。
・カウンセリングをうけることができる。
・カウンセリングをうけていた場合は、カウンセラーの了承をえて、自分の意思で退去することができる。
・規則にそむいたり、あるいはトラブルをおこした場合には、公務執行妨害として、刑事罰を課せられ、刑務所に移管される。
 以上のような施設を設置することによって、自身が犯罪をおこなってしまう不安を感じたものが、自らの意思ではいり、そこで、仕事をこなしながら、不安が解消されるまで、滞在し、解消されれば、自らの意思によって退所する。仕事をすることによって、生活リズムと社会的貢献をし、治療もうけられるようにする。
 こうしたことは社会的コストがかかるが、犯罪がおこなわれることによって生じるコスト、捜査費用、裁判費用、刑務所維持費用などを考えれば、はるかに小さなコストにすぎない。
 かなりおおざっぱな話だが、こうしたことはなんとかならないものか、とずっと考えていることなので、もう少し詳しく調べ、まとまったら再び書いてみることにする。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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