公立小中学校の教師不足は、すっかり社会的に知られることになった。こうなることは、多くの教育研究者にとっては、ほぼ予想されていたことで、とくに驚くことではない。そして、その最大の原因をつくっている文科省は、いまでも、基本的な姿勢を改めていない。給特法の手当の若干の増加という、最悪の策を提示している程度だ。民間のひとたちも、いろいろな案をだしている。AIをつかって、書類作業を軽減させれば、問題が解決するなどという、突飛な見解もある。
さまざまな改善が必要であるが、今回は、その最も基本的な部分について述べたい。
それは、文科省が特に酷いのであるが、教育委員会等の教育行政機関も、教師という存在への敬意がなく、駒のようにみているという基本姿勢があることだ。それが、端的に現れるのは、子どもに対する指導原理と、教師の行動原理が、まったく逆であるような政策である。
現在の学習指導要領では、子どもたちに「考えさせること」を強調している。その強調は不自然なくらいの授業風景をつくりだしている。何度か書いたことだが、とにかく、考えることが必要ではないような場面でも「考え」させて、「発表」させる。発表も、みなの前で発表するのではなく、お互いに誰かをつかまえて、自分の意見を述べる、何度か見学で、そうした場面に接したが、考えるということが、完全に「形式化」している。どうしてそうなるのか。それは、「考える」ということが、どういうことなのか、おそらく教師の多くが理解していないからだともいえる。もちろん、考えさせることを形式的に求めるのだから、深く考える授業など、なかなかできないわけだ。
では、なぜ教師が、考えるということの具体的意味、活動を理解できないのか。それは、徹底的に、教師には考えさせない政策をとってきたからだ。その最も端的な例が、職員会議の執行機関化である。ちなみに、学説上、職員会議には3つの立場があった。「審議機関」「諮問機関」「執行機関」である。審議機関とは、そこで意見交換をして、決定していく機関である。諮問機関とは、管理者(校長)が、教師に意見を求めて、議論するが、決定は校長が、その議論を参考に決める。多数の意見とは異なる決定をすることも、ごく普通に行われる。執行機関とは、議論などをする場ではなく、校長が決めたことを執行する機関ということだ。
戦後、長く職員会議は、実質的に審議機関として機能してきた。優れた実践で有名になったような学校では、職員会議で活発な議論がなされ、教師たちの交流がなされていた。しかし、行政として、かならずしも好ましくないとする見解に、職員会議がまとまり、行政の意図とは違う方向になるという不満を、行政側はもっていた。特に文部省と日教組が強く対立していた時代には、活発な審議をすると、組合員の意見が強い影響をもつので、それを嫌い、職員会議を審議の場ではなくするようにしてきたのである。そして、現在では、省令によって、職員会議は執行機関であることを明記するようになった。(明記していないという説もあるが)それは、教師が自由に意見交換をして、その議論を基にして実践をしていくということを否定することだ。東京都は、職員会議で、意見分布をとることすら禁止している。これは、教師は、校長が決めたことを、そのまま実行すればいいので、意見などはいう機会をあたえる必要はなく、結局、意見をもつことじたい、無意味にしてしまうことだ。つまり、教師は考えるな、ということになる。教師自身は、自分たちのやることについて、管理職のいうことを実行すればいいので、意見もいえないし、考える必要も認められなければ、当然考えることをしなくなるだろうし、まして、子どもたちに考えさせる授業などできるはずがない。もちろん、人間は、ロボットではないから、それでも多くの教師は考えるだろうし、有効に子どもたちに考えさせる授業をする教師もいるだろう。しかし、文科省がやっていることは、「教師は考えるのな、子どもは考えろ」ということなのだ。
ところで、「人間とは考える葦である」という、有名なパスカルの言葉をもちだすまでもなく、考えることを求めない、あるいは抑圧するということは、人間に対する最大の侮蔑ともいえる。これとは多少違うが、ある自治体の政策として、優秀な教師には給与を増し、そうでない教師は減らすという政策をとっているところがある。しかも、そのやり方が、ボーナスから一律の割合で徴収し、それを資金にして、優秀とされる教師にボーナスを加算し、そうでない者には、一切加算しない。つまり、とられた分ボーナスが減ってしまうのである。その決定は当然管理職が行う。どういう教師が加算され、どういう教師が減額されるかは、あきらかではないか。管理者のいうことを素直にきき、「考え」ることを表明しない(内心では考えているだろうから)教師が、多く加算されるはずである。
こうした雰囲気が、楽しい職場であるはずがないし、教師としての誇りを、少なくとも管理職や行政からは、多くの場合、抑圧されていることになる。
他にもいろいろな具体例があるが、とにかく、文科省は、教師への敬意の念を、まったくもっていないのではないか、と私はずっと思っている。だから、ブラック企業だといわれるようになっても、小手先の改善案しかだせないのだ。こうした感覚を基本的に変えないと、今後教師の労働はますますブラック化するし、どんどん不足して、教育が成り立たなくなる可能性がある。欧米では、そうした地域はいくらでもあるのだ。
しかし、感覚を変えることは、難しい。やはり、具体的に、駒のように思っているから出てくる政策を、具体的にやめ、違う方向の政策にすることしかできないだろう。しかし、そうすれば、少しずつ感覚も変っていくのではないだろうか。職員会議で、活発な議論をして、みんなで決め、みんなで実行していくようにしよう。そのように変えるだけで、職場の雰囲気はかなり変わるはずである。教師が意見をいうことを、なぜ文科省は恐れるのだろうか。日教組が復活することなのだろうか。