今回の旅行で、記念館に関しては2つ行った。いつも感じるのだが、記念館とは何を伝えようとしているのか、あるいは何を伝えるべきなのか、そして、訪問者は何を知りたがっていると解して、記念館を構成しているのか、そんな疑問を持つのである。
まず広島の原爆記念館をみた。いままで2回ほど広島にいったのだが、ここは訪れていなかった。今回は不可欠だと考えたのだが、期待を満たされたとはいえない。もちろん、一般市民、外国人、そして、私のような高齢者では、それぞれ求めるのが違うだろうし、あまり、原爆投下の実態について知らない人にたいしては、あのような展示でいいのかも知れない。しかし、日本人の多くは、とくに中高年の人は、原爆の悲惨さは、さまざまな機会に伝えられており、多くの情報をもっている。だから、単に悲惨な写真を見せられても、特別に記念館にきて、新しいことを知ったという気持ちにはなれない。
原爆投下について、私がもっとも怒りを感じるひとつは、あれほどの悲惨な状況になっているにもかかわらず、日本の政府は、これを戦争を終わらせる契機と考えなかったことなのである。それは、原爆投下だけではない。3月から東京大空襲、沖縄戦、全国での空襲と続いた状況では、日本は絶対に勝てない、敗北は100%決まっていた。そもそも首都が大空襲をうけて、ほとんど廃墟と化しているのだから、闘う状況ですらないことがわかる。さすがに、天皇の側近は、降伏したほうがいいのではないか、と進言したとされるが、天皇は、もう少し報いてからと、進言を退けたといわれている。そうして、空襲は全国に拡大し、沖縄戦では上陸を許している。そうして、広島と長崎の原爆投下だ。東京大空襲の時点で降伏していれば、沖縄戦も、原爆投下も、そしてソ連参戦もなかったのである。そうした状況でも、降伏を考えず、戦争を継続しようとしていたということは、政府のひとたちは、国民がどんなに戦死しても、そのことが政策を左右する要因とは考えていなかったことがわかる。現在のプーチンのやりかたを見れば、独裁的、軍国的政権は、いくら兵隊が、市民が死んでも、気にもとめないことがわかるのだが。
しかし、広島は日本の軍隊にとって、重要な基地だったところだ。だから、原爆の悲惨な状況は、すぐに詳細に東京に知らされたはずであるし、当然、軍人といえども、状況を理解し、戦争を続けることはできないと考えていた者もいるはずだ。そうしたひとたちが、原爆投下の実態をどのように捉え、どのように東京に伝え、具申していたのか、そういう情報が、まったくといっていいほど、記念館の説明にはでてこないのだ。それが不満だった。
最終日の前の日には、新潟県の高田城址を訪れた。高田にいったのは、別の理由があるのだが、この際、城をみておこうと思ったわけだ。そして、歴史記念館もみた。高田の古い時代からの流れが要領よく説明、展示されていて、それはとても分かりやすかった。ところが、ここでも不満があった。妻も同じような不満を感じていたので、多くの人が感じるに違いないことだ。
高田というのは、日本有数の豪雪地帯である。私が学校教育をうけていた時期には、日本の地理の学習で、かならず高田がでてきて、いかに雪が高くつもり、さまざまな生活の工夫がなされているというようなことを学んだものだ。新しい時代になって雪がたくさん降るようになったわけではないだろうが、雪対策については、この高田歴史記念館では、戦後のことしかでてこないのだ。古代や中世、また戦国時代などは、どのように雪と闘っていたのか、まったくわからない。とくに上杉謙信が治めていた地域なのだから、豪雪が戦闘にどのような影響をあたえ、どのような対策をとっていたのか、などは、城に付設された記念館なのだから、詳しく説明があってしかるべきだし、それを知りたいと思うひとが多いはずである。江戸時代、さすがに雪の季節に参勤交代などはしなかったろうが、生活にたいしては多大な影響があったろう。戦後以外の雪対策にまったくふれていなかったのは、正直驚いてしまった。
郷土の歴史研究が進んでいないと、そこまでカバーできないのかも知れないが、高田ほどの豪雪地帯であれば、当然伝承などもあるはずで、そうした説明や展示があってほしかった。