2019年12月13日に、2017年6月に福岡県小郡市で起きた母子3人が殺害され、夫(父)である中田充被告が犯人とされた事件に、死刑の判決がくだされた。被告は即日控訴したということだが、極めて難しい事件で、本当に死刑が妥当なのかという疑問もわく。私は犯罪の専門家ではないが、裁判員制度が導入されたということは、市民の感覚を重視するということだろうから、考えを述べることにした。
念のため、事件発生からの毎日新聞記事を検索してみた。判決全文がネットで読めるようになったら読んでみたいと思う。それぞれの論点に、双方がどのように詳細に言及しているか、新聞記事だけではわからないので、憶測部分が入るが、各論点について検討してみたい。
警察が公開している犯行は、「充被告が妻を絞殺し、自殺を偽装するために、ライターオイルで火をつけた。髪の毛の一部が燃えた。その後子ども二人を絞殺して、家を出た。犯行を隠すために、妻に電話を数回した。学校から子どもの不登校を知らされ、妻に電話したが出ないので、妻の姉に確認を依頼し、姉が死体を発見、被告に連絡。被告は、「自殺している」と110番があったと虚偽の報告を警察にした」というものである。 “福岡妻子殺人事件判決について” の続きを読む
日本もホームドクター制の導入を考えていいのではないか
『プレジデント』2020年1月号に、「病院消滅の夕張で、心疾患と肺炎の死亡率が低下した理由」という記事が載っている。元夕張市立診療所所長の森田洋之氏のインタビューに基づく記事である。周知のように、夕張市は、市として破産したわけだ。もちろん、市が破産しても、無くなるわけではないし、また、倒産するわけでもない。財政や行政が、国の管理下におかれ、財政支出の削減を強いられることになる。その一環として、総合病院が無くなり、いくつかの診療所があるのみとなった。171床が19床になってしまったそうだ。そして、多くの患者があぶれ、適切な医療を受けられないようになると危惧されたが、実際には、その逆だったというのである。森田医師の話によると、「日本人の主な死因であるガン、心疾患、肺炎の死亡率は、女性のガンを除きすべて破綻後のほうが低くなっている」という。その理由が、プライマリーケア中心の医療にシフトしたからだと、森田医師は分析している。
プライマリーケアとは、地域のかかりつけの医師が、予防から看取りまで行い、必要な場合のみ専門病院を紹介するというシステムである。夕張市では、綜合病院が消滅してしまったので、そうせざるをえなくなったわけだ。入院や手術が必要な場合のみ、札幌の病院にまかせるようにしたのだそうだ。
その結果、無理な治療が減り、死因も老衰が多くなった。 “日本もホームドクター制の導入を考えていいのではないか” の続きを読む
中村哲さんの死を考える
中村哲さんは、真に日本としての誇りであり、また、世界の平和活動としても優れた典型を示していると思う。しかし、原因はいまだにわからないようで、新聞報道では、原因に切り込むような記事があまり見当たらない。そういうなかで、ふたつの文章が掲載された。
ひとつは、2019年12月6日付けの「人道支援の医師はなぜ狙撃されたのか」という伊東乾氏の文章(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58502?pd=all)と、12月11日付けの「アフガンの農業から考える中村医師殺害の本当の理由」という川島博之氏の文章である。(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58527?pd=all)
伊東氏は、何一つ悪いことをしていない中村医師が殺害されたのは、不可解であると書きながら、「同時に、そうでない現実もかいま見てしまった経験がある」から、どうしても書かねばならないということで、書いたとされる。そのかいま見た経験とは、2008年にルワンダ共和国の招きで参加した「ジェノサイド再発予防」のセミナーでの経験だそうだ。そこで、ルワンダの悲惨な経験を知ると同時に、ヨーロッパからの援助が、役に立っていない側面を見せつけられ、上からの援助という意識への疑問を感じたということのようだ。 “中村哲さんの死を考える” の続きを読む
通常のサービスがされなかったときの対応を考える
先日、昼食を食べにいったら、何度も食べたカレーライスが、通常はたくさんの野菜や肉の具が入っているのだが、ほとんど入っておらず、ルーだけのカレーだった。それは、そのときの鍋の最後の残りだったからで、おそらくその前に具をよそってしまっていたのだろう。直ぐに次の鍋がきたので、どうするか見ていたが、店員は知らんぷりしていた。クレームを付けようかとも思ったが、あまりクレーマーにはなりたくないので黙っていた。ちなみに、越谷市の「半田屋」という、自分ですでに並んでいる料理をとってきて、カレーなどはその場でよそってくれるという方式の店だ。
2,3年前のことだが、もう少々悪質なこともあった。柏の「フォルクス」というレストランだが、夫婦で入って、それぞれ注文したのだが、私の注文が早くきた。そして、食べたら、肉が固く冷たいのだ。食べてしまってからわかるわけだから、まあ、そのときも我慢して食べた。もともと味にはあまりうるさくないほうなので、別にまずくて食べられないということはない。しかし、明らかに、何らかの理由で、前に注文した同じ品物が、出されなくなって、置いてあったものを使ったとしか考えられない。さすがにこのときには、「使いおきの料理を出しましたね。」と支払いのときに言ってみたが、「そんなことはありません」との回答だった。とすると、フォルクスは、冷たく固くなった肉料理を出すレストランなのか。もちろん、他のときには、そんなことはない。
別に、ふたつの店のサービスの悪さをあげつらうために、書いているわけではない。実は、当初予定されているサービスが果たされないときに、どのように対応するのか、それが、けっこう多様なのだ。それを少し考えてみたいと思った。 “通常のサービスがされなかったときの対応を考える” の続きを読む
問題起こした人が「改善案」を作るのか? 「桜を見る会」
国会の延長を回避し、強引に閉会にした安心感があふれた安倍首相の記者会見だった。これで、逃げきれたと思っているのだろう。あきらかに「逃げ」だった。そして、批判があることは承知しているので、「私の責任で」改善案を作るのだそうだ。同様の趣旨のことを、管官房長官もいっていた。しかし、それはおかしくないだろうか。安倍首相や管官房長官は、伝統的に、おそらく「きちんと」行われてきた「桜を見る会」を、自分の利益のために私物化した張本人ではないか。悪用した人間が、悪用したシステムを、正しい方向に改善するなどということを、信じることができるだろうか。ありえないことだ。きちんと第三者委員会を作って検討してもらう、というのが筋だろう。
何故、そうしないのか。それは、第三者委員会を設置したら、当然資料等を提出しなければならない。そうしなければ、適切に検討することができない。しかし、資料を渡したら、私物化の実態、あるいはもっと酷い状況が、明るみに出てしまう。そんなことは絶対にさせないというので、「私の責任で」になるわけだ。そうして、廃棄などしているはずがないデータが出てくることを押さえ込もうとしているのだろう。 “問題起こした人が「改善案」を作るのか? 「桜を見る会」” の続きを読む
免許更新制10年 その効果は?
12月9日の神戸新聞に「教員免許更新制10年 資質の向上、乏しい効果」と題する記事が掲載されている。もう10年になるのかという感じだ。私は最近は全く関わっていないが、大学でやらなければならないことになった最初からしばらく担当していた。記事の趣旨は、最初の文章につきている。
「かつては一度取得すれば終身有効だった教員免許に、10年に1度の「更新制」が導入されてから10年が過ぎた。目的は教員としての資質を高めることにあったが、導入以降も体罰やわいせつ行為などで懲戒処分を受ける教員数は高止まりし、大きな変化は見られない。神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題でも教員の質が問われる中、専門家からは効果を疑問視する声が出ている。(堀内達成)」
ちゃんと署名がしてある記事だ。
私の印象では、大学全体として、当初から反対であった。正直嫌々やってたと、私は感じているし、また、私自身がそうだった。何故か。それはいろいろな理由がある。教師よりももっと専門性の高い職業があるのに、免許更新のために講習を受けなければならないものは、ほとんどない。医師にしても、看護師にしても、永久免許である。弁護士などもそうだ。それなのに、何故教師が、という疑問は、誰でもいだくだろう。しかも、義務として課せられるのに、受講者自身が費用を負担しなければならない。当然、大学は慈善事業をしているわけではないから、ある程度の利益を出す必要がある。終身の免許を発行しておいて、途中から、期限付きだなどと制度を変更してしまうのは、乱暴なやり方ではないか。 “免許更新制10年 その効果は?” の続きを読む
管弦楽と吹奏楽 実はかなり違う合奏体だ
今日は、私が所属する市民オーケストラ(管弦楽団、以下オケと略)の演奏会だった。実はオケ独自の演奏会ではなく、毎年この時期に行う市民コンサートのために組織される合唱団との合同演奏会で、今回は、ブラームスのドイツレクイエムを演奏した。今年は、ドイツレクイエムの初演150周年ということで、あちこちで演奏されているので、聴いたひともいるに違いない。私が住んでいる近隣でも、4つくらいのドイツレクイエムの演奏会があった。そういうためか、いつもの市民コンサートに比較すると、聴衆が若干少なくて、残念ではあったが、演奏は、まあ良かったのではないだろうか。
さて、オケの演奏会をきっかけに、普段、学生たちとよく議論するテーマについて書いてみることにした。それは、表題の通り、管弦楽と吹奏楽(ブラスバンド 以下ブラスと略 最近はウィンドーオーケストラという名称の団体もある。)の違いである。私の勤務する大学は、吹奏楽部が有名で、100人以上の部員が常にいる。そして、コンクールがあると必ず金賞を獲得してくる。だから、ブラスをやるために志望して入ってくる学生も少なくない。日本は、中学高校のほとんどにブラスの部があり、小学校にもかなり普及している。しかし、オケがある学校は極めて少ない。さすがに大学になるとオケはたいていあるようだが。
何故、日本の学校にブラスはかなり普及しているのに、オケはほとんどないのか。非常に残念に思っている。 “管弦楽と吹奏楽 実はかなり違う合奏体だ” の続きを読む
読書ノート『芸人と影』ビートたけし
ビートたけしの『芸人と影』を読んでみた。芸能人の不祥事とされる事件が相次ぎ、テレビでは頻繁に取り上げられているが、紹介文が、テレビの切り口とは相当異なるようなので、参考にしてみたいと思った。本気でそう思っているのかは、まったくわからないが、芸人は、立派な尊敬されるような存在ではない、昔からヤクザとのつながりは常識で、それは、自分自身もそう思うべきであるし、世間も芸人を思い違わないようにしてもらいたいという信条が出ている。だから、芸能人の不祥事について、要するに、世間の目も厳しすぎるし、当人たちも対応を誤っている。しかし、他方で、危ないひとたちとの付き合いに、無自覚であってはならず、一線を引く姿勢が大事だというわけだ。しかし、なかなか難しいという。反社会的人物がいる場に呼ばれて、食事をして、謝礼をもらった芸人が、お金をもらったことを当初隠して、傷口を広げたが、むしろ、本当にもらっていなかったら、その方が危ない。お金ももらわずに、出かけていくとしたら、それは友人であることの証拠なわけだという。 “読書ノート『芸人と影』ビートたけし” の続きを読む
読書ノート『リベラリズムの終わり その限界と未来』萱野稔人
題名は固そうな本だが、実に柔らかいというか、哲学の書物の割りには、どんどん読める本である。本の主題は、リベラリズムとは、他人に迷惑をかけなければ、そして個人の自発的な行為であれば、それを認めるという立場であるにもかかわらず、世のリベラリストが、切実な要求をする人がいるにもかかわらず、沈黙してしまうという例をだしつつ、まずは、リベラリズムの限界、矛盾を示す。
まず、同性婚を合法と認める国が多くなり、アメリカの最高裁でも合法と認める判決が出た。その判決をみて、あるモルモン教徒が、一夫多妻制が合法であることを認めさせるために、二人目の妻(まだ正式に結婚が認められていない)との結婚を正式に認める申請のための訴訟を起こした。ところが、世の中のリベラリストたちは、同性婚のときとは異なって賛意を示さなかったという。この場合も、自発的な意志であり、他人に迷惑をかけているわけではないのだから、リベラリズムの立場からは容認すべきであるのに、そうなっていない。そして、同様な例として、知らずに惹かれあい、年の差結婚していたカップルが実は父娘であることが、わかり、近親婚の罪で有罪となったり、同様に、結婚後兄妹であることが分かって、実刑判決を受けた例についても、リベラリストは沈黙している。それは、矛盾ではないかと、萱野氏は主張するわけである。 “読書ノート『リベラリズムの終わり その限界と未来』萱野稔人” の続きを読む
女系天皇容認の自民幹部に対する産経の反論は(続き)
前回書き忘れてしまったことがあるので、以下補充。
二階幹事長が、男女平等という立場からすれば、結論は容易に出てくると述べたことでわかるように、自民党の幹部ですら、現在の男系男子の立場が、男女平等に反すると考えざるをえない。そして、産経の記事「危うい自民幹部の『女系』容認論 先人たちの知恵に学べ」11.30)は、この点についても反論している。それをみておこう。まず以下のように、基本認識を書いている。
「皇室の問題と『男女平等』を絡めた時点で、すでに理解不足だ。『女系は不可』という言葉に引きずられ、女性に対して差別的と考えているのなら、むしろ逆である。」
逆というのならば、女系容認論のほうが、男女差別的であるということになるが、そのことには全く触れていない。 “女系天皇容認の自民幹部に対する産経の反論は(続き)” の続きを読む