評価のための工夫
授業が終わるとレポートを課したり、試験をしたりすると思うのですが、既に説明したように、掲示板を重視していましたから、レポートはあまり課しませんでした。ここでは、たぶん他の先生はやっていないだろうと思われることに関して、また自覚的な試みとして行ったことについて説明します。
まずテストです。ここにいる人も、私のテストを受けた人がいるかと思うのですが、たぶん、似たやり方をしたテストは、他にはなかったでしょう。私は、教育学概論という科目でのみ試験をして、他は一切テストをしませんでした。しかし、このテストのやり方は非常に奇抜でして、経験した人はよく憶えていると思います。何が違うかというと、3問必ずだします。論文の形式です。普通は書けない量です。かなり難しい論述で、普通の人でも2題書ければいいような問題です。その時間内で書かねばならないということですが、逆に、評価は厳しいものではなく、完璧に書けていなくてもいい。時間の制限もありますから、そこは考慮しながら採点はします。そして、3問のうち1問は、だしてほしい問題があるかを、事前に学生に聞きました。自分でだしてほしい課題ですから、当然書きやすい。だから、たくさん出てくるかと思うのですが、意外に出てこないですね。自分で書きたい答案を書けるのだから、考えていいなさいというのだけど、なかなか出てこない。これは、日本の教育の非常に大きな弱点だと思うのですが、いま、小学校の先生は問題を自分で作らないですね。市販テストを利用します。中高の先生は、形式的につくっていても、問題集などを参考にしてつくるんじゃないか。実は、自分で問題をつくるということは、とても難しいけど、大切な行為なのですね。社会に出ると、自分の仕事に関わって、何が課題かを考えることがとても重要になります。その訓練という意味でもありました。しかし、問題をつくって、これを採用してほしいというのがあったら、採用するというのに、採用率は3割くらいですね。つまり、10回くらいの機会に、3回くらいしか出てきませんでした。とても残念でした。
もうひとつ、試験には、やってはいけないことという制限がつきものですが、制限を事実上撤廃する。試験では、何は持ち込んでいいが、何はだめというような制限がありますね。最近文教大学全体として、期末試験の不正問題が大きな問題になっています。もちろん、ルールがあれば、守らせることが必要ですから、不正を注意しなければいけないのですが、でも、そういう制限自体が本当に必要なのかということをよく考えてみる必要があります。たとえば、レポート課題をだします。レポートは、参照したい参考書をみてかくし、聞きたい人には質問できる。親にもきくだろうし、いろんな人から、データや見解をもらって、書くと思うのです。なら、試験だってそれでいいではないか。そう考えたわけです。だから、教育学概論のテストでは、答案は自分で書く、他の人に書いてもらってはいけない、それ以外は何をしてもかまわない。つまり、何をみてもいい。友達がもっているのを貸してといってもいい。それからインターネットで検索して調べてもいいし、外にでて、友達と相談してもいい。そういう試験をしていました。僕がみる限りでは、違反した者、つまり、他の人に答案を書いてもらった人は、いなかった。3カ所くらいで試験をやって、一人で監督していましたので、もちろん、いつも監視しているわけではない。時々見にいくわけですが、みんな夢中で書いている。答案が途中で字体がかわって、明らかにだれかに部分的に書いてもらったという答案は、みたことがない。
何故、そういうことをしたのかというと、明確なきっかけがありまして、私がこの大学に勤める前に、ある私立大学で非常勤講師をしていました。そのときに、大学院生の同僚の人が一緒にいまして、しょっちゅう話をしていました。彼は名古屋大学の数学科の出身で、大学院で東大の教育系大学院にきたわけです。期末試験をどうやるかということを教えてくれたのですが、非常に面白かった。誰に聞いてもいい、教授に聞きにいってもいいそうです。実際に授業を教えている教授、つまり出題者はだめですが、他の数学の教授ならかまわない。ただし、自分で答案を書く。時間制限もほぼなくて、その日のうちに出せばいいというようなことだったと思います。それなら、教授にゆっくり聞きにいけますね。だけど、彼がいうには、ちゃんと解けるような実力をもった人は、きちんとした答案を書けるけど、理解力のない人は、いくら教授に教えてもらっても、ちゃんとした答案は書けないのだそうです。そういうなかで書いた答案のほうが、制限下で書いたものよりも、実力を表わしているのだ、ということなのですね。そういうことを聞きまして、じゃそれ、やってみようと思ったわけです。やってみて、それは真理だなあと思いました。もちろん、そういう試験だけが正しいといいたいわけではなくて、いろいろな制限がある試験というのも、もちろん、合理性があります。それは試験の内容によって、決まってくる。私の場合は、教育学概論ということで通用したと思うのですが、そういうやり方は、非常に印象的であるし、メディアの人がきたときに話すと、それは面白いですね、と感心されたりしました。
2番目は「人間科学大事典」に書いてもらう。これは、国際社会論と国際教育論の成績評価のときに活用していますが、人間科学大事典は、いまでもホームページにでています。この人間科学大事典は、人間科学部30周年記念事業として設置したものです。何か記念になることやりましょうということで、私が提案して決まったのですが、残念ながら利用しているのは、私だけみたいで、そこに期末試験のレポートの代わりとして利用していました。いまでも、国際社会論をとっている学生が鋭意執筆中だと思います。
何故そういうことをしたかというと、説明文を書く機会として考えたのです。大学で提出する文章は、小論文的なものが多いと思うのですね。論じる文章を読んだり、書いたりするのは、日本の大学ではよくあるのですが、単に説明だけするということは、なかなかない。それを定期的にやっているのは、心理学の実験報告ぐらいでしょうか。それ以外のレポートは、論じることが多いわけで、ある事項について、主観を交えずに、正確に説明だけする、そういうことをする機会はなかなかないのだけど、社会にでると必要な能力です。説明文を書く練習ということで、人間科学大事典を利用させてもらっているということです。
更に、最近の学生は、百科事典をほとんど知りません。ウィキペディアしか見たことがない学生がほとんどです。できることなら、百科事典を知ってほしいということもありましたが、残念ながら、本格的な百科事典は、みる機会が非常に減っていますので、なんとかならないかなと思っています。
以上が講義でやっていた知的能力の向上に関することです。