昨日、野村ノートの出版を望むと書いた。野村の書いた本を何冊か読んだが、念のためアマゾンをチェックしていたら、『野村ノート』という本が出版されていることがわかり、野村が日頃つけていたノートだというので、早速購入して読んでみた。しかし、予想通り、それは私のいう野村ノートではなかった。確かに、野村ノートを元にしているのだろうが、これはあくまでも、野村が書いた著作だ。私が考えているのは、野村のつけていたノートをそのままコピーするなり、写真製版したものだ。もちろん、だれかの解説が付されているほうがよいが、そのままでもよい。そんなものより、本人が書いた、整理された内容があればいいではないか、と思う人も多いかと思うが、やはり、取捨選択してかみ砕いたものは、たとえそれが本人が書いたものであっても、別物であり、オリジナルの書きつけたものには、それだけの価値がある。
音楽の世界で考えてみると、その違いがよくわかる。
たとえば、ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜は何種類も出版されているが、実はみんな同じではない。音符そのものはほとんど違いはないとしても、強弱に関する記号、指使い、スラー、ペダルなどは、けっこう違いがあるのだ。それは、出版するときには、かならず校訂者がいて、現代のピアノ奏者、あるいは学習者に便利なように、校訂者の解釈による記号を付け加えるからだ。なかには、オリジナルの楽譜などは参照せずに、前に出版されている楽譜を訂正する形で校訂する人もいるかも知れない。そういうなかで、一流のピアニストであれば、ほぼ確実に、ベートーヴェンの書いたオリジナルの楽譜をしっかりと参照して、出版譜との違いを確認する。そういう作業を経過して、自分の解釈を作り上げていく。指揮者も、一流の人であれば、必ず実行しているはずである。オリジナルに付加された要素が多いわけだが、オリジナル譜に書いてあるメモなどは、通常出版譜では省かれるが、解釈には役立つことも多いようだ。
こうしたことの需要があるために、有名な作曲家のオリジナル譜は、複写されたものとして、売られている。
これは、他の分野でも、形をかえてはいるが、オリジナル原稿が出版されることがある。もっとも、多くは、印刷された形であるが。
有名なものは、マルクスとエンゲルス共作の「ドイツ・イデオロギー」だろう。これは、出版されなかったために、手書きの草稿の形でしか残っていないわけだが、後世の人が、草稿を読み取って印刷にしたものである。しかし、読み取りかたが編集者によって違うので、いくつかの「ドイツ・イデオロギー」がある。ただ、残念ながら、マルクスの原稿は、関係者でないと判読が困難らしく、仕方のないところか。
文学では、夏目漱石の「生原稿でよむ坊ちゃん」という、漱石が書いた自筆原稿をそのまま写真製版した本がある。それを読むと、出版された本を読むのと、かなり印象が異なる。使われている漢字も相当違う。戦前出版された本を戦後、再出版するときには、漢字を大幅に入れ換えるものだ。青空文庫などは、両方の版を示している。
やはり、オリジナルには、校訂されたものにはないものがある。作者が書いたそのものをみて、想像を膨らませることができるということだろうか。また、作者の真の姿がでているともいえる。
しかし、日本だけではないかも知れないが、オリジナルをあまり重視しない風潮が広まっている。特に、日本の場合、学校教育がそれを助長しているように思うのだ。国語の教科書、特に下の学年になるほど、大人の書いた文章は、オリジナルから遠い姿になっている。そもそも短縮されたりすることが少なくないが、内容は同じでも、漢字やかなの使い方が変えられているのだ。学習指導要領で、習うべき漢字と、その習う学年が規定されている。漢字配当表というものだ。たとえば3年で習うはずの漢字が、オリジナルで使われず、かなになっていると、ほぼ漢字に変えられてしまう。逆に、3年ではまだ習わない漢字が使われていれば、かなに変えてしまうのである。こういうことは、非常に大きな教育上の弊害だと、私は考えている。作者は、表現の必要上、漢字にしたり、あえてかなにしたりするはずである。それは、原作者の意図が示されているのだ。それを、漢字配当表の都合で、書き換えるというのは、いかにも原作への冒涜である。まだ習っていない漢字であれば、ふりがなをふればいいだけのことだし、まして、あえてかなで書いているのを、漢字にかえるのは、編集者の傲慢さといわざるをえない。そうすれば、確実に原作の魅力は落ちてしまうし、また、説明文などは、大人が読んでもよくわからない文章になってしまう。こうしてオリジナル、つまり本来の魅力を味わうことなく、育ってしまうのではないか。
野村ノートも、彼自身が本当に日々つけていたものの迫力というものが、必ずあるはずだ。