指揮者のマリス・ヤンソンス氏が亡くなったという。まだ76歳ということなので、指揮者としては、まだまだこれから絶対的巨匠の道を歩むのだと思っていたので、ショックを受けた。私は、ヤンソンスの演奏をそれほど多く聴いているわけではないし、特別なファンでもないのだが、なんといっても、世界の代表的な指揮者であるし、日本にも何度も来ている。
私が一番熱心に視聴したヤンソンスの映像は、若手指揮者に対する公開レッスンだ。短いレッスン風景の映像は、たくさんあり、小沢征爾などのもあるが、ヤンソンスのは、長時間の、文字通り公開レッスンそのものを映像化する目的で撮影されたようなもので、確か、舞台裏のレッスンを受けるひとたちの動向なども、たくさん写していた記憶がある。
指揮の公開レッスンというのは、見ていて非常に面白い。そもそも、指揮を教えるってどういうことなのだろうか、と考えてしまうものが多い。 “指揮者マリス・ヤンソンス死去” の続きを読む
女系天皇容認の自民幹部に対する産経の反論
この問題については何度か書いたので、躊躇したが、自民党の幹部が女系天皇を容認する発言をしたこと、自民党内で波紋があったこと、そして、産経新聞が容認論への批判(「危うい自民幹部の『女系』容認論 先人たちの知恵に学べ」11.30)を掲載したことで、再度書いてみることにした。
男系男子死守論者という言い方があるかどうかわからないが、そう名付けたくなるひとたちの議論の荒唐無稽さと、それを臆面もなく書く神経には、むしろ感心してしまう。要は、女系論は、皇室のあり方に対するまったくの理解不足によるものであり、父系で継続してきたことが、かけがえのないことなのだという趣旨につきるといっていいだろう。
しかし、それを裏付ける議論は、本気なのかと思ってしまう部分がある。例えば、次のような文章だ。
「令和元年は皇紀2679年だ。その間、居住面積が狭小な島国で暮らしてきたわれわれ日本人は、先祖をたどれば必ず、どこかで天皇家の血と混ざり合っている-と考えるのが自然だろう。 “女系天皇容認の自民幹部に対する産経の反論” の続きを読む
高校野球の投球数問題
高野連が、大会中、1週間の投球数を500級に制限するという方針を打ち出し、波紋を呼んでいる。例によって張本氏は、たくさん投げることで肩を作っていくのだから、そんな制限をしたら、完投できる投手が育たないと反対している。また別の観点から、桑田氏は、制限はするべきだが、小手先の方法になっていると批判している。個人差はあるが、投げすぎが肩に過度の負担を与え、投手生命にマイナスであることは、経験的に明らかだろう。先日、youtubeで快速球投手の回顧ビデオをみたが、尾崎が投げすぎで早く引退したことを思い出した。
野球というスポーツは、サッカーやラグビーなどの集団競技と、全く違う点がある。それは、サッカーやラグビーはほとんどの選手が、大きな身体的負担を負いながらプレーをしているのに対して、野球は、投手だけが過度の負担を強いられる。他の選手は、試合中は、それほどの肉体的酷使はない。また、滑り込みなど以外では、危険なこともほとんどない。このことによって、試合の間隔が大きく違っている。プロの場合、サッカーやラグビーは、試合の間隔を大きく開けるが、野球は、ほぼ毎日行う。前者は、ベストメンバーを組めば、ほぼ同じメンバーで闘うことが多いと思うが、野球の場合は、野手は同じだが、投手は毎試合違う。つまり、投手は多く揃える必要があるわけである。 “高校野球の投球数問題” の続きを読む
ナチスの政策とヒトラー・ユーゲント2
ヒトラー・ユーゲントのドキュメントの後編を見た。これまで、戦争末期のヒトラーユーゲントの活動については、あまり知らなかったので、非常に有益だった。それにしても、ずいぶんフィルムが残されているものだ。お互いに宣伝戦の要素が強かったので、双方が可能な限り戦場カメラマンを配置していたのだろう。
ヒトラー・ユーゲントのメンバーは、現在の中高生の年齢だが、戦況が悪化すると、どんどん実際の戦場に投入されていった。最初は、対空防衛への配置だというので、ドイツが空襲されるようになったときだろう。空襲されるということは、制空権を奪われているから、実際には敗戦濃厚ということになる。しかし、駆り出されたヒトラー・ユーゲントたちは、実際の戦闘に参加できるので、多いに喜び勇んで闘いに出ていったし、また、実際に飛行機を撃墜することもあったという。そして、勲章を受けた。そうした戦闘員のなかに、戦後ローマ法王になったベネディクト16世もいた。ベネディクト16世が法王になったときに、さかんにナチスとの関係が取り沙汰されたが、ヒトラー・ユーゲントのメンバーとして戦闘に参加していたということだ。
既に勝利は望めない状況になっていたが、若者への洗脳のためだろうか、大人の兵隊が状況を説明しても、ドイツが負けるはずがないと思い込んでいた者がほとんどだった。しかし、さすがに悲惨な状況が頻発するようになり、それを目の当たりにするようになっていく。 “ナチスの政策とヒトラー・ユーゲント2” の続きを読む
ナチスの政策とヒトラーユーゲント
録画しておいた「ヒトラーユーゲント」に関するドキュメンタリー番組を見た。まだ前編だけだが、ダイアモンド・オンラインに、村田孔明氏が、舛添要一氏の『ヒトラーの招待』の紹介をしつつ、舛添氏への取材記事を書いている。偶然だが、ヒトラーに対する関心の高まりを感じる。私自身、博士論文のごく一部として、ナチスの教育政策とヒトラーユーゲントについて、研究したことがある。おそらく、ヒトラーユーゲントは、ナチスの政策が、最も成功した領域だったといえる。もちろん悪い意味での成功だが。https://diamond.jp/articles/-/221931
ドキュメンタリー番組は、ヒトラーユーゲントで活動していたひとたちが、インタビューに応じる形で進行する。とにかく、徹底的に、ナチスの考えを吹き込まれる一方、活動を通して、確かに喜びを与えていた。特に、大戦が始まる前の段階では、ほとんどの少年たちが、疑問ももたずに、ヒトラーユーゲントの活動にのめり込んでいた。19世紀末ころから、ヨーロッパでは、青年運動が活発になり、ボーイスカウトやワンダーフォーゲルなどの青年組織と活動が盛んに行われていた。ナチスも、そうしたひとつとして、かなり早くからヒトラーユーゲントを組織し、当初は極めて少ない人数だったが、ナチスが政権をとってからは、参加が義務になる。
おかしさで印象的なインタビューがあった。その人はユダヤ人であることを隠して、ヒトラーユーゲントに参加していた。ユダヤ人であることがわかれば、当然強制収容所に送り込まれて、子どもは殺されてしまう。 “ナチスの政策とヒトラーユーゲント” の続きを読む
蔵書の始末とデジタル化
文系の研究者はだれでもそうだと思うが、本が商売道具である。だからたくさんの本をもっている。当然私のその一人だ。商売道具だから捨てることはできない。単に趣味で本を読んでいるならば、読んだあと売ったり、捨てたり、あげたりしても構わない。しかし、研究のためにもっている本は、読んだあとも、いつ参照するかわからないので、保存しておく必要がある。それでどんどん増えてしまうのだ。幸い、大学に勤めているので、個室の研究室がある。そこに、家におさまらない本を多数置いておいた。しかも、悪いことに、私の父がまた大変な蔵書家で、わざわざ本を置いておくために借りていた別宅を引き上げるというので、お前が引き取れ、と言われ、何度もワゴン車を往復させて、家と研究室に運び込んだ。その頃、私の研究室は、たてに4列の本棚が並んでおり、かなりの収用力があったために、なんとか納まった。運び込んだといっても、本棚には前後2列に並べ、どの本がどこにあるのか探すことが困難な状況になっているほどだ。
この状態が、私にとって、とんでもない事態を引き起こした。東日本大震災で、3列分の本棚が倒れてしまい、本が床になげだされてしまったのである。 “蔵書の始末とデジタル化” の続きを読む
教師免許希望者が減少 その理由を考える
以前、教員採用試験で志願者が減少しているという話題について書いたが、今回は、そもそも大学において小学校教師を目指す学生が減少しているという話題である。私の勤めている大学は、教師の養成で有名で、教師を目指す学生がたくさん応募する。私の所属している学部は、教育学部ではないので、純粋に教師養成の学部ではないが、教師の免許が取得できるので、教師をめざして入学してくる学生が多い。しかし、ここ数年来、明らかに異変が生じている。 “教師免許希望者が減少 その理由を考える” の続きを読む
高校必修科目に古典は必要か?
題名のようなシンポジウムがあり、その記録に論評を加えた本が出版されているそうだ。そのダイジェストを紹介した文書を読んだ。「高校必修科目に古典は必要か、あなたはどう思う?」という西野智紀氏の文章である。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58339?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=list
シンポジウム当日は、否定派、肯定派二人ずつ意見を述べたそうだ。しかも、否定派の人も微妙に意見が違うし、肯定派も同様。
理工系の教授である猿倉氏は、必要なのは「論理国語」で、古典教育は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとなっているので、有害だと主張しているという。最も、だから削除せよということではなく、選択の芸術科目にすべきという見解のようだ。
元東芝の前田氏は、同様に、論理的な文章がかけるようにするリテラシーの教育が必要で、古典は選択にし、現代語訳で充分という意見。
肯定派は、社会系の教授である渡部氏は、古典は、主体的に生きるための知恵を授けるものということで、情理、複雑な心理状態、自分を見つめる方法を教えてくれるとする。
文学部の福田氏は、自分の国の文化を知る権利があり、知の世界に入り込め基礎が古典であるとする。伝統芸能を大切にする日本の姿勢は貴重であると評価する。
このあと討論になるが、どうやら、肯定派が不利な感じで進み、それは、反対論に対する更なる反論をしないことで、露になっているという。 “高校必修科目に古典は必要か?” の続きを読む
読書ノート『見えない戦争』田中均
田中均氏は、日米貿易戦争や北朝鮮による拉致被害者の帰国、そして、大韓航空機爆破事件などに関わった外交官である。国際問題、外交問題などについて、活発に意見提示をしているが、本書はその最新刊である。
見えない戦争とは、戦火を交えるわけではないが、国家間、国家と企業、国家と個人、企業と個人等の間で起きている闘いのことだが、あまり効果的なネーミングとは思えなかった。こうした闘い、競争は充分に見えているので、わざわざ「見えない」などと形容する必要もないのではないか。とはいえ、本書で主張されていることは、特別なことではないが、極めて妥当で、繰り返し確認しなければならないことが多いと思った。
まず、日本の外交が劣化しているという認識を前面にだし、外交が政治家としての宣伝の場になってしまい、実現しなければならないことが、一向に実現しない。官僚がしっかりとした強い政策をつくり、政治家がそれを責任をもって実行する、という外交の基本がおろそかになっていることを指摘する。それは、一種のポピュリズムであるが、日本でポピュリズムが台頭した要因は、冷戦の終結(依るべき価値の希薄化)、国力の相対的低下、北朝鮮の拉致問題(加害者意識から被害者意識に基づくナショナリズム)、アメリカという抑止力がなくなったこと、をあげている。 “読書ノート『見えない戦争』田中均” の続きを読む
ワルターのリハーサルCD
ワルター・コンプリートで一番ほしかったのは、モーツァルトのリンツ交響曲のリハーサルだ。私は、コンプリートに入っているものは、実はほとんどもっているのだが、これがほしくて注文した。1955年に録音されたリンツ交響曲のリハーサルを録音したもので、発売当時は、リンツのレコードのおまけとして付けられたと、何かで読んだことがある。おまけだから、その後再発売されることはなく、幻の録音だった。今では、リハーサルを商品化したものは、いくつもでているが、これがおそらく最初のものだったのではないだろう。カラヤンの第九のレコードやベームの「トリスタントイゾルデ」全曲盤の余白に、リハーサル風景がついているというようなことがあったと記憶するが、おそらく、これだけの量の録音が添付されることはなかったし、現在でも稀である。実際に90分以上で、しかも、各楽章の最初の練習がだいたい納められている。
リハーサルが市販されるようになったのは、映像メディアが流通するようになってからである。カルロス・クライバーの有名な「こうもり」と「魔弾の射手」のリハーサルも最初はLD(レーザーディスク)で発売された。これも当初は、テレビ放映用に撮影されたもので、市販することが計画されていたわけではないと思われる。ほとんどのリハーサル録音・録画は、実際の録音の準備として行われるものを、録音・録画したものだから、当然、本番とセットになっている。ワルターのものも同様である。私の知る限り、唯一の例外として、リハーサルのみが製品となっていて、本番がついていないのは、アバド指揮によるヴェルディの「レクイエム」だ。リハーサルが苦手で、下手であるという評判のアバドが、リハーサルだけの製品をだしているのは、面白い。
さて、ワルターのリンツのリハーサルだが、当時から「演奏の誕生」という題が付けられていた。 “ワルターのリハーサルCD” の続きを読む