『教育』2020年1月号を読む インクルーシブと特別支援を深く知る

 大分『教育』の読後感を休んでしまった。また、できるだけ頻繁に書くようにしたい。
 さて、今回は、特集1が「インクルーシブと特別支援を深く知る」となっている。私は、特別支援教育の専門家ではないので、これまで、いろいろと勉強したり、また、特別支援学校の授業を見に行ったりしてきたが、依然として、よくわからないというのが正直なところだ。記述式問題を出すのはいいが、50万人もの答案をわずかな期間で採点できるのか、というようなことと、似た困難が、現場には無数にある。大学を卒業して教師になったとき、ほぼ全員が直面する事態が、教室のなかにいる障害をもった子どもを、どう教育したらよいのかわからず、暗中模索するという点である。ベテランになったから、充分にできるようになるというものでもない。多くの場合、介助や支援をしてくれる人がついているわけではないから、常識的にイメージされる「授業」は不可能になっているわけだ。「ともに学ぶ」という理念はいいことだろうが、それを保障する条件がないままに実行すれば、現場を預かっている人が、とにかく苦労する。そういう実状が、かなりあることは、誰も否定できないだろう。
 インクルーシブとは、人や団体によって理解に差がある概念で、しかも、教育実践に密接に関係があるから、激しい論争にもなる。最初の窪島務氏の「インクルージョンとは何か」という文章は、本来、障害のある子どもだけではなく、特別の教育的ニーズがあるすべての子どもの教育権保障の意味だったが、通常学級で学ぶ権利ととらえられるようになり、その結果、障害のある子どもが希薄化、不可視化されるようになっているとする。「通常学級教育のすぐれた実践とその理論は、学級のすべての子どもをすくいあげ、教育を保障しうると理念的に考える」が、実際には、多くの低学力、不登校、学習障害などのある子どもが、「みんな」のなかに埋没してしまう。そうした議論は、インクルージョンの目的と手段を逆転させる。数量化可能な「手段」を重視して、障害児学校在籍率などで、インクルーシブの実現を評価するという。そうすると、実際の教育や学習のプロセスへの注目が希薄になる。一人でトイレにいけるようになったのに、まだ、先生についてきてほしいというA君の「単にできること」と「安心してできること」「納得してできる」ということの開きを理解しながら、指導していくというようなことがないがしろにされ、できるのについていくのは甘やかしだというような批判がでてくるというわけだ。
 インクルーシブということを、窪島氏は、特別の教育的ニーズがある子どもの権利保障という、本来の形にすることを主張していると読めるのだが、では、それはどういう形態なのか、どのような「手段」が実施されることなのかは、この短い文章には書かれていない。著作を読むことにする。
 汐見稔幸氏は、「多様な学び手の願いに応えて」という文章を書いているが、初めに、ここ20年くらいの間に、子どものあり方が変わってきて、小学校低学年でも荒れるようになってきたことを考察している。それは、「外で、身体を精一杯使い、群れて異年齢で遊ぶという育ち方をしないまま育った最初の世代」になったことに原因を求めている。宮原洋一さんという小学校の校長が、子どもの外遊びの写真をたくさん撮ってきたのだか、1980年代になると、そうした写真が撮れなくなったと語っていることと、重ね合わせている。ある時期からそうなったというのは、あまりに単純で、もっと早くから、そうした傾向が現われていた地域もあるし、いまでも小さい子どもが身体を思いっきりつかった遊びが可能な地域もあるだろう。ただ、小さいころから身体を精一杯使った遊びをしないことが、子どもたちのあり方を変えているということは、間違いないと思われる。小さな子どもというのは、動かずにはいられない、動きをからだが求める存在なのだと思うのである。しかし、私自身は、おそらく小学校一年のころから、ちゃんと机に座って静かに授業を聞くことができた。しかし、それは、放課後になると、直ぐにかばんを放り出して、外で遊んでいたからだ、と今では思う。小さいころから管理された生活をしている子どもたちは、中から突き動かすような身体運動の衝動をいつ発散させればいいのか。みんなが同じ強さの衝動をもっているとは限らないが、それが強いにもかかわらず、学校外の生活のなかで、充分に動き回ることができない子どもは、結局、授業中にそれを発散するのではなかろうか。そうした荒れだけではなく、他動の子どもも含めて、障害をもった子どもが、間違いなく、ある時期から増加している。それは何故なのか。汐見氏の指摘はそのひとつだろうが、食品の問題等、さまざまな社会生活の変化があるのだろう。
 汐見氏がふれている他の点に、「学級崩壊の原因になる子どもは、しつけや行儀ができていないのではなく、脳の機能に障害があるために、ひとつのことに注意を持続させることができないからではないか、ということが言われるようになった」という指摘がある。発達障害、自閉症、ADHDなどは、なんらかの脳の障害が原因である、と大学の講義では教えている。そして、学生はそれを、疑いもなく受け入れる。しかし、それについて、私と学生はずいぶん議論をしてきた。発達障害が脳の障害でおきるかどうかという事実認定の問題ではなく、そのように認識すると、だから、「仕方ないのだ」という発想に繋がっていく。そして、多くの場合、「遺伝だ」という認識になる。
 脳の障害の原因は、決して遺伝だけではない。胎内環境や、出産後のさまざまな外的刺激や、栄養状態、外部からの物理的衝撃など、脳に障害をもたらす要因はたくさんあるわけだ。それから、脳は、一部の機能が失われても、他の部分で代替的に機能が回復することがあるとされる。
 脳科学者にとっては、ある障害がどのような脳の異常によっておきるかを究明することは不可欠であろうが、教育学や教師にとっては、それはほとんど問題外なのである。ある子どもが、具体的にどのような発達上の問題があるのか、本来その発達や能力は、どのような構造なのか、そして、その能力を発達させるためには、どのような働きかけが必要なのか、それは、具体的な脳の状態を知ることとは、別である。脳に対する外的要因が悪影響を与えていることがわかれば、そうした要因を最大限除去すること、未発達の部分があれば、発達させるメカニズムを理解して、働きかけをすること、そして、そういうことは、脳の障害によって引き起こされた状態であっても、かなりの部分は改善可能なのだ。あるいは、まったく違う方法として、ある機能が極めて不十分であるとき、脳は、別の機能が特に発達することがある。例えば、目が目えない人は、多くの場合、聴覚が極めて敏感になる。そうした代替的に特に発達する機能を、むしろ活用するような生き方を選択させることも、有効だろう。
 汐見氏は、フレネ教育やイェーナプランを引き合いにだして、インクルーシブに有用な教育として紹介しているが、実は、「通常学級」の教育形態も、画一的であってよいのかという問題がある。私は学校選択を「原理的に」支持する立場だが、それは、教育に求める要求は、現代社会では、多様だから、さまざまな教育理念や教育方法に基づいた多様な学校があってもよい、そうした多様な学校のなかから、選択することが、目指されるべきだと思っているからだ。モンテッソーリ教育やサマーヒル教育は、障害者の教育から出発して、一般の教育スタイルを形成してきたものだ。フレネ教育は、フレネが第一次大戦で負傷し、喉を痛めてしまったために、あまり声をださないなかで可能な教育を模索して形成された手法である。異色な教育方法を掲げている学校は、多くが、特別な必要性から出発している。インクルーシブが、みんな一緒にという原則になるなら、通常学級をも貧弱にしてしまう恐れがある。
 しかし、いかなる形態であろうとも、健常者と障害者がともに学ぶ教室を運営するためには、伝統的な教師一人が教えるという条件では、困難であることは間違いない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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