エドワード・サイードの「知識人とは何か」を参考にして、矢内原忠雄と丸山真男を論じた文は、大変不充分なものなので、再度それぞれやがて論じておきたいが、今回は五十嵐を加える文となる。
再度簡単にサイードの知識人の要件をあげておくと、・アウトサイダー・アマチュア・現状の攪乱者となっている。
アウトサイダーとは、特定の人種、民族あるいは国家、共同体などにとらわれることなく、物事を普遍的な立場から捉えることができるという意味である。もちろん、そういうところに属していることは差し支えない、というより、属さないことが現代社会では不可能ともいえる。だから、その所属を超えることができるということだろう。
アマチュアとは特定の狭い分野で活動するのではなく、専門をもっていたとしても、そこから離れて広い視野をもてるということである。最後に、現状の攪乱者とは、権力に対して真実を語るとされている。
おそらく、この三つの条件を兼ね備えている必要があるということではないだろうが、サイード自身が、自分に存在している資質をあげたもののようにも解釈できる。どこに書かれていたかは、現在確認できないのだが、サイードは別のところで、知識人とは、自分で突き詰めて考えた内容が、たとえ自分の地位や存在を脅かすものであったとしても、それを公言できるものと語っていたことがある。サイード自身、常に危険に身を置いていたから、上記の条件やこの定義を明確にできたのだろう。東大教授として軍部を批判した矢内原は、こうした「攪乱者」であったといえるだろう。
さて、五十嵐顕は、上記の意味で知識人だったのだろうか。
まず、第一のアウトサイダーであったかという点では、まったく当てはまらず、むしろ逆のインサイダーであったといえる。私は、著作集編集に携わって、五十嵐の文章をすべて読んでいくうちに、五十嵐は「環境適応型」の人間であると評価するようになった。環境反抗型でもないし、環境創造型でもない。
五十嵐は学生・徴兵(将校となっていた)・教育研修所所員・東大教官・中京大教員、そして、その間、教育科学研究会会員、日教組高師団などを歴任していた。東大の繰り上げ卒業後すぐに招集されて、幹部候補生試験をうけ、首席となって教育担当となっていた。したがって、戦場にでて、直接戦闘に関わったことはない。そして、戦後は教育研修所(その後国立教育研究所、現在は国立教育政策研究所)というクッションをおいて、東大の助教授・教授として活動した。それほど珍しくはなかったにせよ、優秀な陸軍将校だった人が、戦後日教組講師団として活動するというのは、戦前・戦後史にあまり詳しくない人には、奇異に思われるかも知れない。また、研修所時代はアメリカの教育委員会について研究し、多くの論文を書いているが、後年、そのときの業績は一切著作集にいれることはなかった。つまり、環境が変われば、その環境に完全に適応していったのである。
そして、その環境に属しつつ、抵抗したことも、ほとんどなかったように思う。むしろ、たとえ自分の見解とは異なっていても、所属(環境)にあわせることが目立つ。たとえば、研修所時代の調査で、アメリカの教育委員会では、上級(州)教育委員会は公選もあるが任命制もある、しかし、下級(市・郡等)では、ほとんどが公選である。それは、直接教育に関わるひとたちに近いところでは公選で委員が選ばれるのが、民主主義にかなっているということだからだ、と説明していた。ところが、日本で戦後教育委員の選挙が導入されたとき、日教組は、上級(県)の公選制教育委員会の実施には賛成したが、下級(市町村)では地域ボスが支配するので反対であるとして、地教委設置には反対した。これは五十嵐が論文で指摘していたこととは逆であったが、五十嵐は、日教組運動に加わっていたためか、自身の見解を前面にだして論陣をはるようなことはしていない。
また、環境創造型でもなかった。五十嵐は、東大の教育財政学の担当者として採用されるが、教育財政は正式な講座と認められていなかった。そして、それは五十嵐が在任中ずっとそのままだった。文部省の言い分では、教育財政というのは、あくまでも教育行政の一部であって、独立した領域ではない、というものだった。それに対して、環境創造型の人間であれば、教育財政学を盛んにし、業績をあげ、そして学会を組織して、文部省に働きかけるようなことをしただろう。しかし、五十嵐はそうした取り組みをした形跡がない。講座ではないが、一授業の枠の担当者として、ずっと定年まで務めたのである。(つづく)