ノートテークに関する取り組み
最後に聴覚障害の学生のための取り組みです。私が受け持った講義で、聴覚障害の学生は4人いました。人間科学部の学生が3人、教育学部の学生が1人でした。
私が大学で初めて教えたのは、埼玉県の東松山にある大東文化大学というところなのです。担当科目は教育原理でした。その最初の授業に、比較的前の方の関に数人固まっているグループがありまして、そのなかのある学生たちが、後ろをむいて、手をふって、いかにもぺちゃくちゃ話しているように見えたのですが、注意しようかとは思いましたが、それはやめて、一応みていていました。授業が終わったあと、その学生たちがやってきて、「実はこのひとは耳が遠いのです、手話で伝えていたんだけども、それだけでは不十分で、FMマイクがあるので、そのマイクを手にして、授業をしてくれないか」と言われたのです。ああそうだったのか、「やりますよ」といって、次の授業から、FMマイクと通常のマイクをふたつもちながら、講義をしました。聴覚障害のひとは耳が聞こえないわけですから、講義はわからないわけです。必ず何らかの方法で援助しなければならない。その大東文化大学の学生は、強度の難聴ですので、手話と特別なマイクを使っていたわけです。大東文化大学では、手話サークルが盛んで、こうした講義での手話通訳を充分にできるレベルだったそうです。
しかし、文教大学では、私が受け持った最初の学生以前は、まったく聴覚障害の学生は入学したことがないので、手話サークルはありましたが、講義での手話通訳ができるほどではなかったのです。しかも、最初の学生は、全く耳が聞こえない状況でした。
実は、「教育学」の最初の授業のあとで、一人の学生がやってきて、紙を私にわたしてくれました。そして、そこに、「私は聴覚障害の学生なので、配慮してほしい」という趣旨のことが書いてありました。それまで、そういう学生がいることは、まったく教員に知らされていなかったのです。私はすぐに、Cフラフープの部室にいって、こういう学生がいるんだけど、知っているかどうかを確認すると、知らないというのです。しかし、これは君らの援助が必要なので、サークルとして話し合ってほしいといい、また、学生課にも同様のことを伝えました。あとで知ったのですが、その学生が受験するときに、聴覚障害であることを入学課に伝えていたそうなのですが、聴覚障害の学生は、特別な入試上の配慮が必要ないので、その後意識することなく過ぎてしまい、入学式のときに、学生が手話通訳をほしいと要請したところで、事務が思い出し、対応は検討していたようですが、完全に後手になっていたのです。結局その後、Cフラがノートテーカーをコーディネートすることになって、彼らはけっこう苦労することになりました。
全く聞こえないので、FMマイクは意味がないし、大学の講義を手話通訳できる学生はほとんどいないので、結局ノートテイクをすることになりました。基本的に聴覚障害のひとが授業をとると、ノートテーカーというひとがとなりに座って、ノートをとるわけです。
ところが、ノートテイクをやってくれる学生がなかなかいないのです。そして、大学として募集しているのではなく、学生がコーディネイトするので、遠慮もあるし、また、授業情報を完全に知っているわけでもありません。文教の学生はたくさん授業をとっています。だから空き時間がないわけです。やってもいいというひとは、いくらでもいるんだけど、その時間はあわないので、できない、そういう学生が多い。集めるのが大変です。
私は、Cフラの学生といろいろと話をしましたが、この援助を組織している学生たちが、大きな誤解をしていることが、わかりました。誤解というか、私からみれば、間違った考えをしているのです。それで、かなり彼らと議論をしました。僕は授業をとっている学生に、ノートテイクをやってもらえばいいと考えているので、そう提案するのですが、それはいけないというのですね。なぜいけないかというと、授業をとっている学生は、自分が授業を聞く権利があるわけだから、ノートテイクをすることで、障害者のために援助させると、彼らの教育を受ける権利を奪ってしまうことになる。そういうことなんですね。「そんなことないでしょ。他のひとのためにノートをとってあげるのだから、むしろ一生懸命聞くのじゃないか」といって、そうとう議論をしました。もうひとつ、意見が違うことありました。とったノートをどうするかというと、廃棄するというのですね。なんで廃棄するのか聞くと、「ノートというのは、教授が話したことを書き取るわけだけど、教授の話は消えてしまうわけだから、ノートもとり終わったら処分するのが当然だというわけです。それは違うんじゃないのといっても、全然納得しないのです。
援助を組織している学生自身が誤解している。何故誤解しているかというと、聴覚障害者に対して、どう援助するかという専門家の団体があるわけですが、その団体が、ノートテークに関する講習を開いていて、Cフラの学生が勉強のために聞きにいくわけです。そこで教えられた内容が上のようなことなのです。彼らからすると、専門家がそういっているので、そっちが正しいと思うのでしょう。
ある年度のとき、聴覚障害の学生がいる授業に、Cフラの世話をしている学生が履修していたんですね。つまり、両方いたのです。Cフラの学生は、ノートテイクを私のその授業ではしておらず、授業をとっていない学生がノートテーカーとしてきていたのです。なかなか集まらないということもあったし、彼に、「今度はあなたが、やってみなさい」というと、やってくれたわけです。授業のあと「ノートをとることによって、僕の授業を受けることを妨害されましたか?」と聞くと、「いやそんなことはない、普段よりずっとよく聞きました。普段よりずっと詳しくノートをとれました」という。そんなこと当たり前のことですね。そのあと、とったノートをコピーして、聴覚障害の学生に渡し、もちろん、授業を履修している彼にも渡しました。「これはよくないことなの?」と彼に聞くと、やっぱりこれが残ると非常にいいです、というわけです。当の聴覚障害の学生も非常に喜んでいました。実際にやってみて、コーディネートをしている学生も、私の見解を納得してくれましたが、たまたま、私の授業に双方がいたから、可能になったので、そうでなければどうなったのでしょうか。その後どうなっているわかりませんが、今後、聴覚障害の学生がやってきたら、基本的に、その授業をとっているひとのなかから、ノートテーカーを交代でやればいいと思います。そのことが、授業を聞き漏らしがちになるとか、講義をうけることが、阻害されるということは、絶対にない。、むしろ逆でしょう。こういうことがありました。
講義録のテープおこし
学生がノートをとっても、全貌が分かることはないでしょう。前に言ったように、昔の大学であれば、ノートをとれるように、ゆっくり話してくれて、待ってくれたかも知れないが、今はそんなことはありません。どんどんしゃべってしまう。そうすると、ノートをとるだけでは、どの程度理解できるか、難しいのが実状であると思います。そう思って、私は、聴覚障害の学生がいるときに、全部録音をとりまして、テープおこしをする。だいたい私の授業は1限目にあるんですね。とったひとはよく憶えているでしょうが。その授業が終わったら、急いでテープおこしにかかりきりになって、3時間くらいかけておこして、チェックをして、ホームページにアップするということを毎回やっていました。その日のうちに、講義録がホームページに掲載されます。これは、やった人間としては、とても大変でしたが、すごくいい効果がありました。講義内容の誤解が減るということです。何度もいってますように、掲示板に毎回、授業を踏まえて、小論文をアップすることになっているわけです。それを読んでいると、先生はこういう風に説明しているんだけど、どうのこうのと書いてあるのですが、僕がいったことと、違うことが書いてあることがよくあります。僕はAではないといったのに、Aといったと解釈して書いている。そういうのが少なくないのです。これは、しょうがないともいえる。話す方も、わかりにくくいってしまうこともあるだろうし、聞く方も未熟ということがあるだろう。正確に理解することは、なかなか難しい。普段はそういう風に掲示板の書き込みを読むと、学生が誤解していることがよくあるわけですが、このテープおこしをやった年は、そういう誤解がほとんどないのです。それははっきりしています。先生がこういう風にいったと書いてあることは、確かにそういったのです。たぶんに書くときに、学生もああどうだったかな、と思えば、私がいったことが全部おこされて、ホームページに載っているわけですから、簡単にチェックできますね。確認して誤解がない形で、書くということが実現していた。本当は聴覚障害の学生がいなくても、毎回やればいいのかも知れませんが、そこまではとてもできませんので、そういう学生がいるときだけやっていました。そういう意味での効用というのが、非常に高いものがあった。特別支援教育に関する大事なところだと思うのですが、障害のある学生に、合理的配慮をして、障害が事実上表れないようにしてあげる、これは、障害をもった人だけではなく、すべての人に必ずいい結果になる。少なくともマイナスになることはありえません。たとえば、車椅子のひとのために、電車のホームでは、エレベーターの設置が義務化されていますね。車椅子の人にとって、とても便利ですが、でも、妊婦さんとか、疲れている人にとっても、エレベーターを利用できるということで、その利点を享受できるわけです。そういうことは、どういう分野でもいえるのではないかと思うのです。
最近の学生は、あまり知らないと思うのですが、全盲の人が入学してくる前は、越谷キャンパスは、自転車がそこら中に散乱していたんですよ。たとえば、6号館の入り口などは、30台くらいの自転車が、いつもとめてある。それをかき分けながら入り口にはいっていく必要がある。健常者でも大変ですが、これは、全盲の人には、とても危険なんじゃないかということになりまして、その後大学が非常に努力をして、自転車はかならず駐輪場にとめることを、徹底するようになりました。徹底されるまでには、数年間かかりましたね。そう簡単にはいきませんでした。いまは、自転車がそこら辺に、置いてあることなんかはなくなって、自転車をよけながら、入り口に入ることもなくなりました。これは、みんなにとってよかったことだと思うのですよ。障害のあるひとに対して、配慮することは、みなにとっても、いいことなのだということを実感した。
ただ、毎回のおこしは、あまりに大変なので、音声認識ソフトを使おうと思って、新しいバージョンがでると、直ぐに試してみたのですが、これは、いまだにだめですね。かなりよくはなりましたが、講義で使えるようになっていない。今は、siriなどがあって、けっこうちゃんと認識しますが、あれは、単文だからなんですね。文を話して句点までだと、正確に認識するのですが、句点が複数あって、次に続いていくような文章だと、途端に認識できなくなります。これは、ハードとの連携で、たとえば、句点のときには、キーボードで何かのキーを押すというようなことをすれば、たぶん、かなり認識率が向上すると思うのですが、グーグル翻訳にしても、そういう仕組みになっていない。あくまで、声を認識するだけなので、逆に単文以上の長い文章は、認識できなくなってしまうのです。ハードとの組合わせの処理をしている認識ソフトにはであったことがないですね。でも、将来的には、音声認識ソフトが充実すれば、活用して、講義はすべておこしが観点にできる、そうすると、講義の理解も正確になるかなと思います。
聴覚障害の学生が討論に参加する工夫
次にディスカッションをどうやるかということです。
いまはやっていないのですが、昔は、「国際社会論」という授業で、比較的履修者が少なかったので、最後にディベートをやっていたんですね。全員参加制でやっていました。テーマを複数決めて、グループにわけて、順次ディベートをする。そういうときに、聴覚障害の学生が授業をとっていました。ディベートに参加しなければいけないわけですが、耳が聞こえないひとがどうやって、討論に参加するのか。散々考えまして、これがそのときの、写真です。
鮮明なのが残っていなくて、申し訳ないですが、前に並んでいるひとが2組のグループです。この間でディベートをするのですが、ここには写っていないのだけど、この写真の左側に聴覚障害の学生が座っていて、パソコンを使っています。彼は、スクリーンを見ながら参加している。ディベートをしているひとの発言を、急いでノートテイカーがノートパソコンでタイプして、それがスクリーンに映される。彼は、そのスクリーンをみて、発言の内容を理解する。自分が発言するときには、自分のパソコンで打ち込むと、それがスクリーンに表れるので、他の参加者がスクリーンをみて、かれの発言を知るという仕組みです。今では、lineなどをつかえば、簡単にできることかも知れませんが、同時は、そういうものがないので、チャットソフトを使って、こういう仕組みをつくっていました。このことによって、聴覚障害の学生がディベートに参加することができた。今からすると、懐かしい感じがします。