指揮者のリハーサルビデオ フリッチャイ

 最近、指揮者のリハーサルビデオをいくつか視聴した。クライバー、ベーム(ドン・ファン)、カラヤン(シューマン4番)、フリッチャイ(モルダウ)等。市民オーケストラで演奏していることもあるが、以前から指揮者に最も興味があるので、こうしたビデオはできるだけ見るようにしている。このなかでは、フリッチャイのものが、非常に興味深く感じられた。というのは、フリッチャイが病気に倒れて、極めて健康状態の悪いときになされたリハーサルだからである。
 フリッチャイは、1958年に白血病と診断され、大手術を受け休養を余儀なくされたが、1959年夏に復帰したとされる。しかし、1962年に白血病が悪化、翌年3月に亡くなっている。このリハーサルは、1960年6月に行われているので、復帰後1年のときのものだが、前日は苦痛で睡眠もとれないので、よほどキャンセルしようかと思ったのだと語っていたそうだ。このビデオの最初に、解説者がそれを語っている。このリハーサルビデオは、南ドイツ放送交響楽団がシリーズとしてだしていたリハーサルビデオで、当初レーザーディスク4枚組ででていた。カルロス・クライバー、ショルティ、ノイマンが一枚ずつで、残りの一枚にフリッチャイとシェリヘンのものがはいっている。最近はあまり見なくなってしまったが、購入当時はよく見た。そして、興味深いことに、他の指揮者は、練習のほうがよく、本番は練習での注意が行かされていない部分があるのに、フリッチャイのは、明らかに本番が圧倒的に優れている。ゲネプロが一番よかったというようなことは、よくあるようだが、このフリッチャイのモルダウは、本番がよく、健康状態が最悪なのに指揮台にたってくれたことに対して、楽団員たちが発奮したのだろうか。フリッチャイも何かのりうつったかのような指揮ぶりである。
 モルダウは、チェコからドイツに流れていく川であるが、水源から始まって、次第に流れが増し、村の結婚式を横に見ながら、激流になっていく情景を描いた交響詩である。音楽は、フルート2本が掛け合う水源を表わすメロディーから始まる。こうしたプロオケのリハーサルでは初めてみたが、第一フルートが楽譜を勘違いしていて、かなりの音を抜かして吹いている。フリッチャイに注意されて気づくのだが、それでもときどき音が抜けてしまう。ここは一本のフルートが吹いているように響かなければならないと言って、何度も二人で吹かせている。そして、次第に水量が増えてくるのがはっきりわかるように、音楽が書かれており、大きな流れになると、有名な旋律がバイオリンで奏でられるのだが、ホルンとバイオリンのかけあいなどが何度もチェックされている。私もモルダウを弾いたことがあるが、バイオリンが美しいメロディーを演奏しているときに、チェロも含めて、他の弦楽器は、流れを描写する細かく速い音形を弾いているだが、聴いている人たちは、バイオリンに耳を奪われているので、ほとんど聞こえていないだろう。しかし、こうしてリハーサルビデオを見ると、楽器の組み合わせ確認できて、音楽の構造を理解できる。
 村の結婚式になると、軽やかなリズムやダンスのアクセントなどを、身振り手振り、歌で細かく示され、この人病気なのかと思うほど元気なのだ。しかし、そのあと休憩になるが、控室にさがっていく足どりは、本当に具合が悪そうだ。
 しかし、休憩後は、激流になる部分だが、実にエネルギッシュに指揮しており、ダイナミックな音楽に、身体も合わせて動く。特に、最後のふたつの和音は、短くビシッと決めるといって、非常にコンパクトで鋭い振り降ろしを2度する。それに合わせて音がぴったりあって決まっている。
 その後本番となる。おそらく、これは放送用の番組なので、午前中にリハーサルをして、午後本番だが、通常のコンサートホールではなく、放送局の客席付きのスタジオのような感じだ。観客がたくさんはいっている感じもなく、放送用に動員されたかのようだ。クライバーのときは、聴衆がはいっている雰囲気だったので、フリッチャイの健康状態を考慮したのだろうか。しかし、演奏は、非常に素晴らしく、速めのテンポで進む。指揮の指示も、練習のときよりも細かく、弦楽器の表情などを克明に引き出している。最後まで引き締まった演奏で、最後の2つの和音も決まっている。
 指揮者は、他の演奏家と違って、体力が落ちて、テクニックが衰え、引退せざるをえなくなるということがない。病気になったり、あるいは、あまりに高齢で体が動かなくなる以外は、引退せずに現役を通す。本番の指揮中に突然倒れて、そのまま亡くなってしまう人も何人かいる。最近では、イタリア人のシノーポリが、アイーダの指揮中に亡くなっている。また、カラヤンは、ザルツブルグ音楽祭の最中、オペラ「仮面舞踏会」のリハーサルを追えて、自宅に帰宅したあと、ソニーの大賀社長と商談をしているときに、突然倒れてそのままなくなっている。カラヤンは、長く痛みを伴う疾患と闘いながらの指揮活動だった。だから、フリッチャイのように、病気を抱えながらの指揮も、決して珍しくないのだ。そこで、本当に不思議なのは、出てくるときには、よろよろしているのに、一端指揮を始めると、まるで元気もりもりの人と間違えるほどに、活発な動きをする。高齢まで指揮をしていたイタリア人のセラフィンも、最晩年は、指揮台にたどり着くまで、抱えられながらやっと指揮台に置かれた椅子に座るのだが、一端指揮を始めると、要所では立ち上がり、まったく疲れをみせることなく、オペラを振ったそうだ。何が、このような激変を可能にするのか。音楽の不可思議な力としかいいようがない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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