悠仁親王の筑附進学問題の広がり 筑附は収賄では?

 久しぶりに皇室ネタだ。ほぼ論点は尽くしたと思っていたので、しばらくご無沙汰していたが、やはり記しておく必要があることがでてきた。
 小室圭という一個人と内親王が結婚すること自体には、別に反対もしないが、このことのもつ意味は大きいと指摘した。それは、小室家が手にするものは、皇室の権威であり、その背景にある資産である。小室家が資産家であり、皇室の権威や資産をあてにしたわけではないという結婚であれば、おそらく、国民のだれもが、疑問にもつことはなかったろう。もちろん、家族の自死や近親者の反社会的人物などの問題はあるが、それをとりあえず無視しておけば、このあまりに一方的な社会的冨の偏在がもたらす影響である。あまりいい言葉ではないが、要するに「たかり」の構造が浸食するということなのだ。それは大分前に指摘した。小室氏の母親が刑事告発されているが、それは、まさしくたかり的姿勢が、公的資金を不正にえている可能性があるということだ。小室氏がたかるのは、倫理的に問題があるとしても、個人がそれを獲得しようとするのは、ごくありふれたことといえる。問題は、たかられるほうだ。「たかる-たかられる」は、共依存のような関係にあるものだ。

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ウクライナ侵攻への対応に関する疑問

 ロシアの常軌を逸した侵攻については、心底怒りを感じるた。プーチンは、ウクライナの非ナチ化のために侵攻したと言っているそうだが、プーチンがヒトラー化しているというのが、事実に近い。ウクライナに対する無差別攻撃(民間人や民間住宅への攻撃)、ロシア国内における完全な言論統制、政権に対する批判を刑事罰にする法の制定。これらは、ナチズムに該当する。これらについては、今更述べる必要もないだろう。
 それに対する欧米側の対応にも、疑問を感じる点が少なくない。直接関係しないところにいる素人の見解に過ぎないのだが。反省的な意味をこめて、やはり、こちらについて考えたい。

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ウクライナは人の住めない地域になるのか

 3月8日の配信のなかで、ふたつが、ウクライナを人か住めない状況にしてしまうことを、プーチンが意図しているのではないかという見解を述べている。
 ひとつは高橋洋一氏であり、「狂人プーチンの原発攻撃は恐ろしい未来を迎える危険が」と題されている。
 もちろん、高橋氏は、そういうことは起きないことを強く望むという断りをいれているが、簡潔にまとめると、プーチンはウクライナの原発の施設を抑えようとしている。表向きの理由は、ウクライナが核開発をしているというデッチあげをして、ウクライナ非難とロシアの侵攻の正当化だが、プーチンの最大の目標は、ウクライナの非武装中立だから、それを文字通り実現しようということだ。もちろん、ロシアに従順な傀儡政権ができればそれに越したことはないのだろうが、傀儡政権が望めない場合には、特にウクライナ中部にある原発の管理を放置してしまう。そうすると、2,3日内にメルトダウン、そして、チェルノブイリで起きたような爆発が起きる。そうすると、ウクライナは人が住めない地域となり、非武装中立が実現するというのだ。そして、高橋氏のジョージア(旧グルジア)人の友人に、その話をしたところ、プーチンならやりかねないと、同意されたというのである。

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トランスジェンダー選手の競技参加問題

 昨年の記事だが、アメリカのトランスジェンダー選手が、大学の水泳大会でめざましい活躍をしたことが話題になっているという。https://news.yahoo.co.jp/articles/fb100c8e5f4abc60c91cd33a0a3c27a938e5781d
 そして、東京オリンピックで話題となった重量上げの事例もあわせて思い出させている。ネットで検索した限りでは、女性アスリートの多くは、トランスジェンダー選手が女性選手として参加することについては、反対であるといえる。ただ、全体として女性アスリートの不利な状況に配慮している人は少ないのに、こういう問題だけ意見をいうのはどうか、という疑問を呈する女性アスリートの声はあった。
 さて、この問題は以前にも書いた記憶があるが、再度考えてみたい。そのために、「トランスジェンダー選手の五輪出場「オリンピックは排除ではなく、迎え入れる場所だ」。専門家はこう見る」という記事 の検討という形をとる。
 中京大学スポーツ科学部來田享子教授へのインタビューを元に、安田聡子氏が執筆した記事である。記事自体は、東京オリンピックに、トランスジェンダー選手が初めて正式に参加したとされているので、それをきっかけにした記事である。

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ロシアは日本を攻めるのか ウクライナ-ロシア関係と日本

   ウクライナ情勢の進展とともに、日本での防衛問題について、反射的に、増強しなければならないとの主張がネットでは増えている。しかし、それらの意見の状況認識は、極めてお粗末であるといわざるをえない。ウクライナにロシアが侵攻したのだから、日本にだって攻めてくる、だから、それに対応するために軍備を増強すべきだというわけだ。ちなみに日本は、核はもっていないが、軍事力としては、国際的には上位にあるとされており(実戦をしたことがないので、本当の実力はわからないが、日本人の軍隊だから、敵に怖じ気づいて戦意喪失などということは、ないと信じる。)、しかも、アメリカとの軍事協力があるのだから、ロシアがそんなに簡単に侵攻してくるとは考えられない。本当にそういう事態が生じたとしたら、日本の政府が余程挑発的なことをしてしまうか、あるいは相手の挑発に乗ってしまうという失策によるものだろう。実際に、太平洋戦争に日本が突入したのは、アメリカの挑発的政策に引き込まれてしまった側面がある。日本の当時の政治家たちが、本当に冷静に考えて行動していれば、アメリカの挑発にひっかかることを、なんとしても回避したに違いない。

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ドキュメント「クラシック音楽と冷戦」を見る

 「クラシック音楽と冷戦」というドキュメント映像を見た。市販もされているものだが、私が見たのは、クラシカジャパンで放映されたものの録画だ。現在、ロシアによるウクライナ侵攻の影響を受けて、音楽家やアスリートが締め出しをされている問題とも重なる側面を示しており、今見たためか、余計に興味深かった。
 内容は、第二次大戦でドイツ崩壊後、ソ連が東ベルリンを支配するようになったのが、米英より早く、直ぐに文化重視の政策をとったため、劇場なども早期に再建され、一貫して、東独を西側に対する優位性を示す材料として、音楽が使われたために、歪みを伴いながらも、音楽家たちは優遇されていた状況が語られている。社会主義体制では抑圧される教会も、重要な文化資産ということで、トーマス教会合唱団やドレスデン聖歌隊なども、活動を容認されていた。ベルリン、ライプツィッヒ、ドレスデンなどの優れたオーケストラ、歌劇場が東ドイツには存在したし、また、優れた音楽家がいたので、彼らの政策するレコードは重要な産業として位置づけられており、また西側のレコード会社も東ドイツの音楽家を使いたがった。共同作業も盛んだった。

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教育に何故多様性が必要なのか

 昨日の宿題として、何故教育に多様性が必要なのかを残したが、それを考えてみよう。
 多様性は教育の様々なレベルで必要である。多様性の反対は画一化であるが、そうした圧力は確実に強まっている。その典型が「スタンダード」である。そして、画一化の圧力は、政策的にあるだけではなく、むしろ現場の管理者や教師自身のなかにも存在している。あるいは親などにもあるといえる。私の娘のある時の担任が、仮説実験授業を実践している教師だったが、子どもたちは非常に喜んでいたにもかかわらず、親たちが「教科書にそった授業をやってくれ」と抗議してやめさせたということがあった。これなどは、「教科書通りの」というやり方に画一化させる力が、親も求めることがあるという例だ。しかし、その結果、つまらない授業を子どもたちは受けさせられることになった。

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教育の公共性・多様性・選択

 佐藤年明氏による提起のなかに、公共性に関することがあった。昨日の回答では、あまり詳しく書かなかったので、この点に絞って、再度考察したい。
 「公共性」とか「公」という概念は、かなり人によって異なる意味に使われており、どれが正しいと決めるわけにもいかない。
 実は、教育学において「公」のつく言葉は、多様な意味に使われている。
 「公教育」と「公立学校」では、「公」の意味は明らかに異なる。「公立学校」は「私立学校」に対する意味で、自治体あるいは国家が設立した学校という意味であるが、「公教育」には、公立学校も私立学校も含むから、より広い意味、「全体に関わる」というような意味になる。しかし、その「全体」にしても、文字通り「教育全体」なのか、あるいは、「家庭教育」などを除外するのか、人によってイメージが異なるに違いない。
 そこで、教育における「公共性」概念について整理をするとともに、そこにある本当の論点は何なのかを考察していきたい。 

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佐藤年明氏の批判に応える 学校選択と公共性

 昨日、コメント欄に、佐藤年明氏から、私の大日方氏の『教育』論文批判に関するコメントに疑問、批判をされた旨の知らせがあったので、早速読ませてもらい、回答しなければならないと思い、長くなるので、コメント欄ではなく、ここに書かせていただきます。批判への回答のため、「である調」ではなく、「ですます調」にします。
 佐藤氏がとりあげているのは、私がこのブログに書いた「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」についてです。
 佐藤氏の批判は以下にあります。
 最初に、私の文章に対して丁寧なコメント、批判を寄せていただいたことに感謝を申し上げます。
 
 誤解もあるかも知れませんが、佐藤氏の指摘を、以下のように整理をしてみます。
1 国民の教育権論は、自爆したという表現があるから、使命を終えたのか、再建が可能、必要だと思っているか、明らかでない。
2 「どんなに熱意のない、学級通信などまったく作成する気もない教師にあたったからといって、委託してはいないから、本当に委託したい教師に自分の子どもを任せたいといっても、聞き入れられないのだし、国民の教育権論者は、そうした意識を受けとめなかったのである。」と書いているが、国民の教育権論は、「委託したのだから」などと説明していたのか。そんな国民の教育権論者はいないのではないか。
3 大日方氏の私事の組織化から公共性が実現するという論理をどう考えるか。

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ウクライナ考 義勇兵・ロシア正教

 現時点でまだ混沌としている。いくつかの議論が起きていることについて、考えてみたい。
 第一に、ゼレンスキー大統領が、国際義勇兵を組織し、各国に義勇兵の派遣を要請したことである。日本でも、報道によると、70名ほどの応募があり、大半は退役自衛隊員だという。今のところ、政府は派遣に消極的であり、ネットでの議論でも、そうした行為は国内法に違反するという反対論や、困っているウクライナを助けるべきだという賛成論がある。政府が最も心配しているのは、政府として、義勇兵を派遣することを承認すれば、ロシアに宣戦布告したと受け取られかねないということのようだ。

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