昨日の宿題として、何故教育に多様性が必要なのかを残したが、それを考えてみよう。
多様性は教育の様々なレベルで必要である。多様性の反対は画一化であるが、そうした圧力は確実に強まっている。その典型が「スタンダード」である。そして、画一化の圧力は、政策的にあるだけではなく、むしろ現場の管理者や教師自身のなかにも存在している。あるいは親などにもあるといえる。私の娘のある時の担任が、仮説実験授業を実践している教師だったが、子どもたちは非常に喜んでいたにもかかわらず、親たちが「教科書にそった授業をやってくれ」と抗議してやめさせたということがあった。これなどは、「教科書通りの」というやり方に画一化させる力が、親も求めることがあるという例だ。しかし、その結果、つまらない授業を子どもたちは受けさせられることになった。
最初に確認しておく必要があるのは、「現実として」教育は多様に行われているということだ。教師が違えば、同じ教材を同じ指導案で授業をしても、微妙に違ってくるものだし、また、子どもが違えば、更に違いは大きくなる。試験の採点でも、記述式の問題であれば、採点者によって点数が微妙に異なるのは、ごく当然である。
もし、どうしても、同じ授業を受けることが、教育の平等であり、公正であるというのならば、かつてのアメリカが志向したように、ティーチングマシンに頼るか、現在であれば、優秀な教師の模範授業ビデオを全員が見るという形になるだろう。それなら、完全に同質性が確保できる。また、試験は、記述式は避けて、選択式問題にすれば、採点者によっての違いは生じない。しかし、個別の教師の授業と、ビデオ鑑賞の授業、記述式テストと選択式テスト、どちらが教育的に効果的であるかは、自明である。もちろん、事情によって、ビデオの授業を見ることや、選択式の試験をすることが避けられないことはあるだろうが、日常的な学級の実践としては、教師による授業、記述式試験でのチェックが、より効果的な教育であることは、検証の必要すらないことだろう。
実際には多様であるという事実を考慮せず、同質な教育が与えられるべきだと考えると、様々な圧力を加えて、等質化させようとする。戦前は、国定教科書通りの授業をしているかどうかを、時々視学官が授業を見に来て監視することが行われていた。
第二に、子どもの興味関心、資質、また将来のために必要な学びは、多様だという点だ。典型的な国家による義務教育の開始は、徴兵制度との関連だったのだが、そういう義務教育ならば、兵隊として必要な資質という画一的教育を求めただろう。しかし、現代の教育は、義務教育も含めて、子どもの将来のために行われるものだ。そして、子どもの将来は、時代とともに多様化し、かつどんどん新しい領域が登場している。ビジネスマン、公務員、教師、医療従事者、福祉従事者、芸術家、アスリート、様々な分野の職業があるが、これらに必要な資質や能力は、明らかにかなり違うのだから、同じ教育を同じ方法で、子どもたちに実施することが、かえって将来必要な能力の開花を阻害することは、疑いない。
しかも、現在の社会変化のなかでは、将来は消えていく職業も多数予測されているように、単に多様化が進むだけではなく、職業そのものの新しい誕生、そして逆の消失が進んでいくことも確実とされている。
だから、教育の多様性を認めるだけではなく、変化に対応できる力を培う教育、あるいは新しいものを生み出す創造性の教育をどう考えるかという課題が出てくる。この点については、これまで何度か書いてきたので簡単に書いておく。
新しい事態への対応能力の形成は、必要であろう。そして、それには、自分の好きなことを徹底的に追求することがよいというのが、私の見解である。変化への対応だから、いろいろなことをやるのがよいという考えもあるかも知れないが、いろいろなことを浅くやっても、本当に対応できるかどうかはわからない。新しいことなのだから、挑戦する自信のようなものが必要なのであり、そのためには、ひとつのことを極限までやりきった経験をもっている方が、新しいことに出会うときの困難を乗りこえることに怯まず、必要なことを理解して克服する力を形成しやすいと考えられる。
創造性の教育は、私は、原理的に不可能だと思っている。「教える」という意味での教育は、過去の蓄積を教えるのだから、創造性を含めることはできない。ただし、子どもが何かそれにまでにないことをやっているときに、それを抑制しないこと、むしろ励ますことは、その子どもがもっている創造性の芽を育てるのに有効かも知れない。
第三に、教育方法が進歩して、多様な方法が開発されていることである。先進国で19世紀末頃に、義務教育が始まった後、少し経過して、新教育運動が始まる。それまで、学校に通う子どもたちは、必要性を感じて教育を受けていたわけだから、積極性があり、なんとか教師の指導に適応しようという姿勢があったと考えられるが、義務として通学している子どもたちのなかには、ほとんど適応できない、あるいはそういう意志を示さない者も少なくなかったと思われる。そこで、従来の教育方法では、そうした子どもたちに学ぶ姿勢をつけさせることは難しいと感じた教師や教育研究者が、新しい方法を模索し始めたのが、新教育運動である。20世紀開始の前後に起きた新教育運動で生まれた、新しい教育手法のなかで、現在でも継承されているものは、多数ある。シュタイナー、モンテッソーリ、フレネ、ドルトンプラン、イエナプラン、プロジェクトメソッド等々。他にもいろいろとあるだろう。
そして、こうした模索は、戦後も続いており、ティーチングマシンやコンピューターを使った教育も試みられている。インターネットが果たしている役割も大きくなっている。
こういう状況のなかで、たまたま居住している地域の学校が行っている教育スタイルを、そのまま受け入れるよりは、親や子どもが、前もって学校を見学し、自分が学びたいスタイルの教育を選択して、受けられるようにすることが、もっとも教育効果を高めるに違いない。また、国際的にこれだけ、経験と知恵を蓄積した教育方法が豊富に存在するのに、そうしたことを許容せず、学習指導要領が推奨する方法を実践しなければならないというのも、教育効果を高めることにはならない。
以上が、教育に多様性が必要な主な理由であるが、現在の行政による管理として、多様性の否定が顕著である。その典型が先述したようにスタンダード実践である。学校によっても、その実施状況は異なるようだが、ひとつの圧力として無視できないものがある。以前から、行動パターンの定型化(手を上げるときに、指の形で意見の賛否を表す等)は、いろいろなところでみられたが、それが、教え方、学び方などにも浸透しているようだ。私は、大学勤務であったので、実際に経験したことはないが、小学校の現場の話では、近年かなり酷くなっているという。スタンダードなどということは、結局は、自信のない教師、自信のない管理職のごまかしのテクニックに過ぎない。教師にとって必要なのは、個々に異なる子どもたちの反応に対する、臨機応変な対応であって、反応や対応を定型化するというのは、教育の死を意味するといっても過言ではない。
このことは、逆に、多様性の実現には、「寛容」の精神が必要であることを示している。たとえ、ある特定の種類の教育スタイルを、親と子どもが選択したとしても、子どもが完全にそれに適応するかどうかは、また別の問題である。違う学習スタイルをとるかも知れない。
テレビ放映された事例だが、あるAI研究者であり企業家である人の高校時代の勉強が、いかにもユニークなものだったという。中高一貫の学校だが、中学入学後直ぐにコンピューターに興味をもち、高校3年の秋まで、授業中ずっと自分で持ち込んだパソコンをいじっていたというのだ。自由な校風だったということもあるが、そこまで認めるというのは、かなりの自由度といえる。教師も生徒たちも、あいつはああいう奴だということで、やめさせるようなことはなかったそうだ。さすがに成績はあまりよくなかったらしい。しかし、3年の12月になると、入試が不安になって、そこから猛勉強を始め、1月のセンター試験を経て、無事東大に合格したという。そして、卒業後AIの第一人者として、大企業とともにAIを駆使した様々な製品開発に取り組んでいるという放送だった。極端な例であるが、彼がコンピューターをずっと授業中いじっていても、授業そのものを妨害しているわけではなく、彼なりの学習をしていることを、教師も認めていたということだ。これまでにない世界を切り開くには、それだけの集中力で若いころから夢中になることが必要なのかも知れない。そして、それを許容した学校だからこそ、その後の活躍があったわけである。