「クラシック音楽と冷戦」というドキュメント映像を見た。市販もされているものだが、私が見たのは、クラシカジャパンで放映されたものの録画だ。現在、ロシアによるウクライナ侵攻の影響を受けて、音楽家やアスリートが締め出しをされている問題とも重なる側面を示しており、今見たためか、余計に興味深かった。
内容は、第二次大戦でドイツ崩壊後、ソ連が東ベルリンを支配するようになったのが、米英より早く、直ぐに文化重視の政策をとったため、劇場なども早期に再建され、一貫して、東独を西側に対する優位性を示す材料として、音楽が使われたために、歪みを伴いながらも、音楽家たちは優遇されていた状況が語られている。社会主義体制では抑圧される教会も、重要な文化資産ということで、トーマス教会合唱団やドレスデン聖歌隊なども、活動を容認されていた。ベルリン、ライプツィッヒ、ドレスデンなどの優れたオーケストラ、歌劇場が東ドイツには存在したし、また、優れた音楽家がいたので、彼らの政策するレコードは重要な産業として位置づけられており、また西側のレコード会社も東ドイツの音楽家を使いたがった。共同作業も盛んだった。
そうした話のなかで、いろいろと興味深い逸話が当事者から語られている。
まずはソ連当局が、とにかく芸術、特にクラシック音楽については重視し、終戦直後の飢えが解決される前に、劇場を再建したということだ。そして、とにかく有名人を招いて、国威、あるいはソ連の優越性を示そうとした。ソ連や東独政府の意向に反することがなければ、それなりの自由な活動が許されたようだ。コミッシュ・オーパーを設立した演出家のフェルゼンシュタインは、生涯劇場の総裁にとどまり、ゲッツ・フリードリッヒやプフファーなどの優秀な演出家を育成したし、彼らは西側の劇場でも活躍した。ただし、あくまでも、反政府的な姿勢をとらない、また西側に亡命しないという条件付きであったために、西側に演奏旅行に出るときには、特にオーケストラのような団体の場合、秘密警察が同行するか、あるいは、彼らの「協力者」が監視していたとされる。
ソ連でショスタコービッチが苦しんだようなレベルにはいかないまでも、同じようなことは東ドイツでも起きていて、前衛的な音楽、12音などは、「形式主義」として受け入れられず、演奏なども制限されていたという。要するに伝統的な音楽、演出という枠があったのだろう。
音楽がとりわけ重視されたのは、外貨獲得手段だったからでもあり、当初は、西側で得たギャラの5割が国家がとったという。所得税のようなものともいえるが、まったく様相が異なるのは、発言力がある音楽家が交渉すると、その都度引き下げられたそうで、カウンターテナーのコヴァルスキーは、2割くらいまで下げさせたと語っている。だが、弱い立場の人は、5割とられたままだったという。所得税という明確な基準によるものなら、そういうことはないだろう。演奏家のほうで、そんなにとるなら、外国での演奏会はしない、と言い出されると、国としてもこまるということなのだろう。
東ドイツ音楽界でも、1970年のカラヤンによる「マイスタージンガー」の録音は、大きな事件だったようで、短いがカラヤンの録音風景を含めた映像なども紹介されている。ただ、疑問だったのは、誰かは分からないのだが、当時を振り返った人が、「さすがにカラヤンも緊張していたようです。というのは、オーケストラの人は、最初の5分で指揮者の力量を見抜きますからね」と語っていたが、ありえない話だろう。この録音が、当初イギリスのバルビローリの予定だったが、チェコ事件への抗議でバルビローリが降りたので、おそらくだめもとで、カラヤンに要請したところ、カラヤンが承諾したということであり、承諾の時点で、音楽界としての大事件だったわけである。1970年といえば、カラヤン・ベルリンフィルの全盛時代に突入していた時期であり、ヨーロッパ楽団の帝王そのものだったわけだから、オーケストラに認めてもらえるかどうか緊張していた、などということはありえない。(もしかしたら、翻訳の誤りなのかも知れないが。)
東独政府は、この録音のために、録音会場付近の航空機の飛行はすべて禁止したと言われており、録音が順調に進んで、予定より早く終わったとされている。映像でのカラヤンも実にリラックスしている。
私にとって興味深かったのは、エーリッヒ・クライバーに関することだった。クライバーは、再建されたベルリン国立歌劇場の音楽監督になるはずだったか、あるいはなったけれども、比較的早く辞任した。そのどちらかが、私には明確ではなかったのだ。なるはずだったが、その前に辞任したということのようだ。しかも、辞任の理由が、劇場運営や音楽的なことだと思っていたのだが、そうではなく、再建された国立歌劇場の正面玄関の上に掘られる「文字」が、再建前のものではなく、国民劇場というような、当世風のものに変えられていたことに抗議したということだったという。再建というなら、そういう「文字」もそのまま再建せよ、というのが、クライバーの感覚だったのだろう。いかにも頑固なクライバーらしいし、それが息子のカルロスにも受け継がれたのかも知れない。
スポーツは国威発揚のために利用されたが、音楽は、権威主義的な国家ではなく、文化を重視しているという姿勢を示すことと、更に営利的な目的で保護されていたということだ。
現在起きていることについて、多少ふれよう。
ロシアのウクライナ侵攻で、ロシアのアスリートが、国際的な大会から締め出されている。それに対して、フィギュアの金メダリストだったプルシェンコが、個人は国家の政治とは無関係だと、締め出しを非難している。ネットでの議論も多様だ。
政治とスポーツを混同すべきではないということは正しいが、ロシアにおいては、国家とスポーツが密接不可分になっていることは否定できない。アメリカのイラク侵攻、ロシアのウクライナ侵攻は、それぞれ不当なものだが、アスリートの扱いに関して、政治とスポーツの区別という意味では、この両国はかなり違う。アメリカでは、国家がスポーツ選手の育成に、特別な資金援助などはしていないと思われる。あったとしても、せいぜい私人か私的団体の援助だろう。しかし、ロシアにおいては、社会主義の伝統を引き継いでいるようで、すべてのスポーツではないと思われるが、とくに、プルシェエンコの属していたフィギュアスケートでは、才能のある子どもを試験で集め、無料で教える。そして、大きな大会で優勝すれば、大きな優遇措置を受けられ、その後の生活が保障されるようなシステムになっている。オリンピックが、アマチュアの大会だった頃、社会主義国家の選手は、ステイツ・アマと呼ばれていたものだ。事実上、国家に雇用されたプロのようなものだという意味だ。
つまり、ロシアにおいては、スポーツは国家政治のなかに組み込まれており、国家の宣伝、威信を示すための道具であり、彼らがスポーツ大会に出場することは、ロシアの政策を背負ってくる。このことを否定するのは困難なのである。
才能の育成として、非常に効果的なシステムであることは間違いないが、選手としての活動への規制(特に芸術家の場合には大きな制約となる)など、トラブルが発生することが避けられないし、また、ドーピングなどの不正な行為が防ぎにくいという点でも、大きな視点でみれば、国家が才能ある子どもを、全面的にバックアップして育成する方式そのものは、やはりやめるべきだろう。
高校や大学におけるスポーツ推薦制度なども、似たような側面をもっているので、それは別の機会に考えたい。