佐藤年明氏による提起のなかに、公共性に関することがあった。昨日の回答では、あまり詳しく書かなかったので、この点に絞って、再度考察したい。
「公共性」とか「公」という概念は、かなり人によって異なる意味に使われており、どれが正しいと決めるわけにもいかない。
実は、教育学において「公」のつく言葉は、多様な意味に使われている。
「公教育」と「公立学校」では、「公」の意味は明らかに異なる。「公立学校」は「私立学校」に対する意味で、自治体あるいは国家が設立した学校という意味であるが、「公教育」には、公立学校も私立学校も含むから、より広い意味、「全体に関わる」というような意味になる。しかし、その「全体」にしても、文字通り「教育全体」なのか、あるいは、「家庭教育」などを除外するのか、人によってイメージが異なるに違いない。
そこで、教育における「公共性」概念について整理をするとともに、そこにある本当の論点は何なのかを考察していきたい。
まず、あまり好きではないのだが、辞書での確認をしておこう。まず、小学館の「日本国語大辞典」の説明を引用する。
公
・かたよらないこと・平等
・あきらかなこと、かくさないこと
・朝廷、公儀、役所
・華族の第一位公爵
・宰相や大臣の尊称
・主君
・父
他に「道長公」などのように、添える字の意味が多種あるが略。
公共
・社会一般、公衆・おおやけ
・公衆が共有すること、社会全体がそれに関わること
公共性
・ある事物・機関などが、ひろく社会一般に影響や利害を及ぼす性格、性質
以上だが、「公」は古くから使われているが、「公共」「公共性」は明治以降使われるようになった言葉である。
次に英語ではどうか。Oxfordの現代英々辞典。
public
1 of or concerning the people as a whole :
open to or shared by all the people of an area or country:
of or involved in the affairs of th community , especially in government or entertainment:
2 done, perceived, or existing in open view:
3 of or provided by the state rather than an independent, commercial company:
4 of , for , or acting for a university
longman の辞典では
1 relating to all the ordinary people in a country, who are not members of the government or do not have important jobs
2 available for anyone to use
3 relating to the government and the services it provides for people
日本語には、公平や平等という意味があるが、それ以外は、英語はあまりかわりはない。全体に関わるということと、国家機関が関与することという意味をもっていることが共通といえる。一般的な感覚では、「公共性」というのが、全体に関わるというニュアンスであり、「公立」の「公」が国家機関に関わることをさしているといえる。
ただし、無視できないのが、英語の1の意味として、open to all the people と書かれている点である。
イギリスのPublic School が私立学校であることは、よく知られている。では何故そのような名前で呼ばれているのか。それは、通常の学校が、地域から生徒を受け入れるのに対して、地域性を排除して、全国だれでも受け入れたからである。そのために全員寄宿制になっている。もっとも、高い授業料をとっているので、基本的には貴族の学校として誕生して、社会的に閉ざされていたのだが、授業料を払う必要がない無償席という制度を作り、そこは試験があったが、社会的地位による規制を排するという意味も加えて、public を看板にしたのである。
これに対して、アメリカのpublic school は「公立学校」と訳されるが、これも制度的にみれば、open であることを含んでいる。アメリカは広い国だから、後代の大都市は別として、自治体は地域にひとつの学校をつくり、そこに誰でも入れるようにした。アメリカでは、高校の途中までが義務教育だから、高校入試はないし、また大学についても、基本的な学力を満たせば、住んでいる州の州立大学には、誰でも入学することができる。そういう意味で、public という語が、「誰にでも開かれている」という意味を踏まえているといえるのである。ドイツ語 öffentlich やオランダ語 openbar になると、「公的」は、明確に「開かれている」という言葉である。
こうした辞書的な意味を踏まえて、では教育における公共性をどのように使うことが適切なのか。
公共性が、全体に関わることという意味を含んでいることは、誰にも認められることだろう。では、「全体に関わる教育」とはどういう意味だろうか。教育が義務教育となり、国家が学校を設立して、教員を養成、採用するようになったときには、日本において典型的だが、国家が教育内容を定め、義務教育に通う子どもみなが、建前としては、同じ教育を受けていた。そして、そのなかの優秀な子どもや資産家の子どもが、上級学校に進学し、多様な教育を受けるようになる。そうした時代にあっては、「公教育」は、文字通り、国家が組織する教育であり、義務教育は、全員に関係している教育であった。
しかし、現代はそうした教育のあり方が、未来の担い手を育てる教育としてふさわしいかといえば、明らかにふさわしくなくなっている。社会全体が多様化し、更に、未来は多様性が拡大する社会となっていく。そうしたときに、子どもたちが、みな同じ教育を受けていくことは、多様性を前提とする社会を発展させることにならない。
この場合の教育の多様性とは、何を学ぶかという点だけではなく、同じ内容を学ぶにしても、違う学び方をするという多様性も含む。また、どこに重点を置くかという多様性もあるだろう。
これからの教育は、学ぶ内容、学び方、学ぶ重点等々の多様性を認めることが、社会の発展のために必要なのである。(何故必要なのか、ということの考察は、ここでのテーマではないので、別稿にする。)
すると「公共性」が「全体に関わる」「全体が統一された」という意味であるとすると、不適切な意味になってしまう。そこで、やはり、ドイツ語やオランダ語にも共通する意味である「全体に、誰にも開かれている」という意味で、公共性を定義するのが、今後の教育のあり方としては適切なのである。
考えてみれば、おそらく公共性は、古代ギリシャのアゴラを典型例としていたのではないだろうか。アゴラは、だれもが参加できる議論の場であって、自由な議論がなされ、当然、異なる意見が平等に扱われた。開放性と自由と多様性が一体となった概念が「公共性」なのである。
では多様性を前提とした学校制度には、何が必要だろうか。端的にいえば、「選択」である。居住地域によって通学する学校を指定する制度の根拠は、どの学校で学んでも、等しい教育が保障されているということだった。実際には、学校や教師が異なれば、違う教育を受けることになるのだが、政策的には、できるだけ同じ教育を受けられるように、指導、管理されている。つまり、通学区制度は教育の画一性を前提にした制度なのである。そして、佐貫浩氏(前教科研委員長)の公共性論は、基本的には同一性を前提にした論理である。
佐貫氏は、公共性を、共同性・共通性の形成であるとし、新自由主義は、愛国心などによって公共性を形成しようとするが、民主主義によって形成することが必要だとする。公共性の内容が違うが、公共性の意味は同じである。(佐貫浩『新自由主義と教育改革 なぜ教育基本法「改正」なのか』旬報社)共同性・共通性の形成として公共性を位置づけるのだから、多様性は考慮されていない。
教育に多様性が必要である時代には、通学区指定は画一的教育の押しつけであり、適切な制度ではなく、選択できることが不可欠になる。そして、その場合、教育における公共性とは、「多様な学校が存在していて、子どもたちは、通う学校を自由に選択できること」という意味になる。
多様な学校のなかから、主体的に選択した学校であるから、そこの教育を信用していることになり、教師は、親と子どもの委託を受けて、自由な実践が可能になるわけである。もちろん、選択される前提として提示していた教育内容、方法等にそっている必要はあるのだが。また選択した学校だからこそ、参加にも意欲的になれるといえる。