昨年の記事だが、アメリカのトランスジェンダー選手が、大学の水泳大会でめざましい活躍をしたことが話題になっているという。https://news.yahoo.co.jp/articles/fb100c8e5f4abc60c91cd33a0a3c27a938e5781d
そして、東京オリンピックで話題となった重量上げの事例もあわせて思い出させている。ネットで検索した限りでは、女性アスリートの多くは、トランスジェンダー選手が女性選手として参加することについては、反対であるといえる。ただ、全体として女性アスリートの不利な状況に配慮している人は少ないのに、こういう問題だけ意見をいうのはどうか、という疑問を呈する女性アスリートの声はあった。
さて、この問題は以前にも書いた記憶があるが、再度考えてみたい。そのために、「トランスジェンダー選手の五輪出場「オリンピックは排除ではなく、迎え入れる場所だ」。専門家はこう見る」という記事 の検討という形をとる。
中京大学スポーツ科学部來田享子教授へのインタビューを元に、安田聡子氏が執筆した記事である。記事自体は、東京オリンピックに、トランスジェンダー選手が初めて正式に参加したとされているので、それをきっかけにした記事である。
來田氏は、オリンピックは、「いかなる種類の差別も受けることなく」と定められているのだから、ルールで認められた者を排除することは認められないという。そのオリンピックのルールとは、
「国際オリンピック委員会(IOC)は2015年に改定したガイドラインで、「血清中テストステロンレベルが一定値以下」「宣言した性自認は4年間変更不可」などトランスジェンダー女性選手が自認する性別の種目に出場するための複数の条件を定めた。」
というものだ。
つまり、性自認とホルモンレベルによって性を決めるということだ。迎えた試合でルールに従うことは当然だが、それが終われば、ルールの妥当性を検討するのが、研究者の役割ではないだろうか。
更に、來田氏は、「世界選手権やワールドカップは、世界で一番は誰かを決める場所ですが、オリパラは、人々が異なる意見を持ち寄り、ともに考えながら、社会の未来を作ろうというムーブメントの一部です。」と述べて、オリンピックでは勝敗を決める競技であるより、未来社会を作るためのムーブメントでるという「見解」を述べている。「勝敗を決める競技であるより」と言われたら、アスリートは驚くのではないか。
そして、氏は明確なトランスジェンダー選手の出場について結論をだしているわけではないが、「トランスジェンダー女性は女性である」という断定をしている。当然、オリンピックのルールに従って出場することは、肯定しているということだろう。それを認めないことは、「人権問題だ」とまで述べる。
さて、ここまでで、いくつかの疑問点がある。何よりも、「トランスジェンダー女性は女性である」と断定することは、これまでの女性論の発展からみて、正しいものだろうか。
私は、大学生のとき、「婦人問題研究会」というサークルに所属していたのだが、その当時は、「女性」を様々な概念で区別することはなかった。しかし、その後、次第に、生物的な「性」とは区分して、社会的なあり方としての「ジェンダー」、「性的志向」そして、「性自認」という別々の概念を成立させてきた。現代では、一つ括りとしての「女性」「男性」として把握することができないひとたちがいる、そして、それは決して特別なことではなく、多様なあり方として是認されることだという認識が成立しているのだと思う。もちろん、これらの概念のどれでも、自分は「男性」、あるいは「女性」として自覚している人も多い。しかし、生物的な性とは異なる点をもっている人も、統一的な人格として平等に扱うということが、LGBT平等の原則だろう。言い換えれば、個人のなかに、女性的側面と男性的側面の両方を含んでいることが、特別なことではなく、そういう多面性を認めることが必要なのだと理解するのが、適切である。だから、「トランスジェンダー女性は女性である」という定式化は、そうした多面性を捨て去るもので、適切ないい方ではない。そして、それをスポーツに単純に適応することで、矛盾した対応が出てくるのではないか。
トランスジェンダーのために、性転換(適合)手術を受けて、性転換したといっても、生物的に、男から女に、女から男になるわけではない。あくまでも、本来の生殖器を取り除いて、外見上異なる生殖器を形成手術して、外見上の性転換をするだけなのだ。性転換した「女性」が、妊娠能力をもつわけでもないし、「男性」が精子を放出できるようになるわけではない。つまり、生物的には、性転換をすることはできないのである。しかし、LGBT差別禁止は可能だ。そもそも差別とは社会的な行為なのだから、社会的に差別を禁止できれば、LGBT差別を無くすことが理屈上はできる。しかし、だからといって、社会的なレベルではない、生物的な男を女にすることはできないことを無視して、「トランスジェンダー女性は女性だ」と、スポーツのレベルで言い切ることは、妥当だろうか。
競技スポーツのほとんどすべてが、男女別に試合をすることになっている。また、いくつかのスポーツは、なんらかのランク付け(例えば、体重別)をして、ランク内で競技をする。また道具を使うスポーツは、肉体条件と道具に関する規定(例えばジャンプ競技のスキー板の大きさ)を決めているものもある。こうしたランク付けについては、完全な合意が形成されていない場合もあるが、私の見る限り、男女を別に行うことについては、ほとんど異論がない。それは、スポーツが、筋肉を使って争う行為だから、筋肉量に勝る男性が有利だからである。生殖を巡る身体的構造の相違から、筋肉や骨格に関しては、男性が強く作られ、病気等に対する耐性は、女性が強く作られている。もちろん、個人差はあるが、平均的には明らかであり、だから、あらゆるスポーツで、トップレベルでは、男性の記録が女性を上まわっているのである。(女性が有利なスポーツは唯一馬術だそうだが、馬術はやはり馬が競う要素がかなりあるので、女性が強いという例にはならない。)
もし、トランスジェンダー女性が、女性であるということで、女性の側で参加したら、生物的に女性である人にとって、不利な状況になることは明らかである。これは、男女にわけて行うスポーツのルールに抵触するのではないだろうか。
さて、他にも、來田氏には、疑問な発言が少なくない。
トランスジェンダー選手出場の意義として
・公平性のエビデンスを作る (ハードル男は110メートル、女は100メートル 根拠なし)
・スポーツの可能性を広げる
という2点をあげているが、ハードル競技の男女差に科学的「根拠がない」ことは、おそらくそうなのだろうが、こういうことは、科学的根拠に基づいて決めることでもなかろう。
世界スポーツ医学連盟はトランスジェンダー選手の参加は公平だとする発言を引いているのだが、少なくとも、多くの女子アスリートは公平だとは考えていないに違いない。実際にそのような発言は、ネット上に多数ある。もし、公平だというなら、男女分けずに競技することも、公平だといえるに違いない。
そして、「バスケットボールの身長、国家の経済力など、様々な差があるのに、なぜ性別にだけ拘るのか」と述べているが、氏が拘っているのは、トランスジェンダーで女性になった人の場合だけであるように思われる。それに性別だけに拘っているのではなく、体重差で分けるスポーツも多数ある。
そして、最初の提起、オリンピックは勝負を競うものより、という考えの具体化なのだろう、競技の勝負についての判定方法を、基本的に変えていくことを提起している。もちろん、すべてこれにせよということではないだろうが、私には、ほぼ不可能な方法であるように思われる。
「例えば、筋力や骨格、育ってきた経済的な地域の状況などの指標をデータに織り込み、出てきた結果で「この人は様々な複合要因の中で最大のパフォーマンスを発揮している」と測る方法もあってもいいかもしれません。」
学校の成績の付け方で、前の学期からどれだけ伸びたかという基準で付けるというような発想に近いかも知れない。しかし、筋力、骨格、育った地域の経済力などの指標をデータ化して、公平な基準を設定できると考えているとしたら、スポーツを実際にやったことのない人ではないかと思ってしまう。このようにして、公平さを保つ判定をすることは、不可能なことだ。
そして、最後に、「その苦しさの中でのトレーニングと、シスジェンダー女性が苦しみながら続けてきたトレーニング。その努力一つ一つが、同等に比べることなんかできないほど、どれも貴重なんです。
どの努力も、すべてがその人の努力なのであって、それに優劣をつけることは本来できない。」と述べているが、それでは、競い合うスポーツを否定してしまうことになる。
結局、スポーツそのもの公平なあり方ではなく、トランスジェンダー選手(M to F)の参加を肯定する論理をなんとかひねり出そうとしているように、思われてならない。
ネットでは、男女とは別に、トランスジェンダー枠を設置する、という現実的な提案があり、そちらのほうに、説得力を感じる。